愛する源氏物語 (文春文庫) [ 俵 万智 ] – 楽天ブックス
大将の君(夕霧)は堅物と評判でしたが、月日を経るにつれて、一条宮(柏木の妻)への想いが募っていきました。
寂しく所在ない折には絶えず訪れなさいますので、母・御息所も「有り難いお心遣いを……」と大層慰められておられました。
「今、色めいた振る舞いは相応しくない。ただ深い愛情をお見せすれば、いつか宮も打ち解けてくださるだろう……」と、折々につけてお見舞いなさいました。
けれども、悲しみにくれる宮がそれにお応えすることはありませんでした。
その頃、御息所が物の怪にひどく患いなさいました。小野の山里に評判の高い律師が山籠もりをしていましたので、一条宮を伴ってそちらにお移りになりました。
八月二十日頃、夕霧が小野の山里にお見舞いにお出かけなさいました。特に深い山道ではありませんが、松が崎の山々も秋の気配がして、誠に風情がありました。
趣きある小柴垣に囲まれた住まいに、宮は品よく暮らしておられました。
御息所は北の廂間に臥せておられましたが、物の怪がやっかいだとして、客人の御座所はありません。
そこで宮がおられるお部屋の御簾の前に、夕霧をお通し申しました。御息所は、
「このように遠くまでお訪ね下さいまして、かたじけなく……」と申されました。
宮は奥の方にひっそりといらっしゃいましたが、身じろぎなさる衣擦れの音は大層心惹かれる様子でした。
夕暮れになり空の様子も哀れに、霧が深く立ちこめてきました。
山陰が薄暗くなった頃、蜩(ひぐらし)が鳴いて、垣根に植えてある撫子の花が色鮮やかに見えます。
山おろしに松風が響く中、不断の経を読む声が尊く聞こえてきました。総てがしみじみと趣深く感じられますので、
山里のあはれを添ふる夕霧に 立ち出でむ空もなき心地して (夕 霧)
(訳)山里に寂しさを添える夕霧のために、帰る気持にもなれません……
と申しなさいますと、
山賤の籬(まがき)をこめて立つ霧も 心そらなる人はとどめず (一条宮)
(訳)山里の垣根に立ちこめた霧も、心がうわの空の人は引き止めません……
「山里に夕霧が立ちこめましたので、今夜はこの辺りに宿をお借りしたく思います。
同じことなら、この御簾の側に……」とさりげなく仰いました。
宮は「嫌なことを……」と奥に入ってしまわれましたが、日が暮れて室内が暗くなりましたので、やがて御襖の外に出ておいでになりました。
夕霧がお引きとめしますと、お召物の裾が襖に挟まり錠が閉められません。
宮は震えながら怯えた様子で、「思いもよらぬことを……」と泣きそうに申されましたが、夕霧はとても落ち着いた態度で、御心の想いを打ち明けなさいました。
「これより馴れ馴れしいことは、お許しがなければ決していたしません。宮のつれない素振りが、誠に辛く……」と、襖をあえて引き開けずに、
思いやり深く気持ちを抑えておられました。宮は優しく上品で、少し痩せた感じがして、何もかもが愛らしく思われました。
そのまま夜が更けてゆきました。入方の月が山の端に傾く頃、
「やはりお分かり頂けないのでしょうか。もう気持ちを抑えていられない気がします。
男女の仲をご存知ない訳でもありますまいに……」と迫りましたが、宮は悲しそうに、
「私は不幸な結婚をした上に、悪い評判を受けなければならないのでしょうか……」とお泣きになりました。
夕霧が、月の明るい方に宮をお誘い申しますと、宮は気強く拒みなさいます。
それをたやすく引き寄せて、「私の愛情をお分かりになり、心優しくなさいませ。お許しがなければ決して……」等と申しなさるうちに、明け方近くになってしまいました。
宮は、
「父院がこのことをお聞きになったら、どうお思いになるのでしょう。……まして母・御息所がご存知ないのも罪深い気がいたします。
せめて夜を明かさずに、今宵はこのままお帰り下さいませ……」と申されました。
夕霧は、荻原や軒端の露にそぼちつつ 八重立つ霧を分けぞ行くべき
(訳)荻原の軒葉の荻の露に濡れながら、幾重にも
立ち籠めた霧を分けて、帰って行かねばならないのでしょうか……
大将の君はあれこれと思い乱れながら、お帰りになりました。
一条宮に後朝(きぬぎぬ)の御文をお出しになりましたのに、宮はご覧にもなりません。
女房たちは、「まだ何事もないのに、お痛わしい……」などと話し合っておりました。
母・御息所は重病に見えますものの、爽やかな気分になられる時もありました。昼の加持祈祷が終わって、阿闍梨がひとり陀羅尼を読んでおられました。
生真面目な性格のこの律師は、だしぬけに、
「……そうでしたか。あの大将はいつからここにお通いなさるようになられましたのですか……」とお尋ねになりました。御息所は、
「そのようなことはありません。亡くなった大納言(柏木)と仲が好く、度々お見舞いに立ち寄って下さるのです」
「いや、可笑しい。今朝、西の妻戸か出てこられたお姿を僧が見て、お泊まりになったようだ……と噂していました」と申しました。
御息所は、
「まさか。人少なの頃をみて、忍び込みなさったのか……」と不安になり、律師が立ち去った後に、小少将の君(女房)を呼んで確かめなさいました。
女房は最初からのいきさつを説明し、「長年秘めていた胸の内を、お耳に入れる程度のことでございました。夜も明けぬ内にお帰りになりました……」とお応え申しました。
「どうあったにせよ、軽々しくお逢いになったのが間違いのもと。法師たちが言いふらさずにはおくまい……」と、大層心を痛めなさいました。
しばらくして、大将の君からお手紙がありました。
「冷淡な宮の御心に接して、かえって一途な気持になってしまいそうです……」とありましたので、御息所は一層思い悩まれ、
女郎花(おみなえし) 萎るる野辺をいづことて 一夜ばかりの宿を借りけむ
(訳)女郎花が萎れている野辺を、どういうおつもりで
一夜の宿をお借りになったのでしょう……
途中までお書きになったところで、急にお苦しみになりました。物の怪の仕業と怖れ、僧たちが大声で祈祷を続けました。
その頃、夕霧はご自邸の三条院におられましたが、北の方(雲居の雁)はこのお忍び歩きのことを知って、
大層ご機嫌が悪く、若君たちのお世話に気を紛らわして、御座所に臥しておいでになりました。
ちょうどそこに御息所からのお返事が届きました。
苦しみの中に書かれた文字は、鳥の足跡のようで読み難く、夕霧は灯火を近づけてお読みになりました。
女君は几帳の陰におられましたが、素早くお見つけになり、後ろから手紙を取り上げました。
「何をなさるのか……けしからぬ……」
言い争いの後、この手紙を隠してしまいましたので、夕霧は「早くお返事をしなければ、お身体に障る……」と焦りましたが、仕方もなく、その日も暮れてしまいました。
翌日、蜩(ひぐらし)の鳴く声に山里に想いを馳せながら、御座所の奥をご覧になりますと、そ
こに御息所からのお手紙がありました。急いでお読みになり、
「昨夜の事を、宮と契り合ったとお聞きになりましたのか……」と大層胸が痛みました。
その頃、御息所は 夕霧からのお返事がないまま日が暮れてしまいましたので、酷くお苦しみになりました。物の怪などが弱り目につけ込んで勢いづいたのでしょう。
急に息も途絶えて、みるみるうちに冷たくなってしまわれました。律師も大声で祈祷いたしましたが、臨終の時は明らかでした。
宮は「母上とご一緒に死にたい……」とお悲しみになり、ぴったり添い臥しておられましたが、今は全てが終わり、悲しいことでございました。
ご葬儀の準備に取りかかります頃に、あちこちからのご弔問がありました。夕霧も心をこめてお慰めなさいましたが、
宮は、「この方のために、母上の御心が乱れ、お苦しみも増した……」と大層恨めしく、返事さえなさいませんでした。
九月になり、山おろしの風が吹き渡る頃になりましたが、宮は今も涙の乾く時もなく、悲しみにくれておいでになりました。
大将殿は、毎日お見舞いの手紙を遣わせなさいましたが、ご覧になることさえなく、母君が噂を信じたまま亡くなられたことを思い返しては「ますます憎い……」と涙が溢れるのでした。
法事などが全て終わりました。宮は髪を削ぎ、小野の山里で一生を送ろうと決心しましたが、父院がお許しになりませんので、仕方なく一条の御邸にお戻りになりました。
その日、皆が寝静まった頃に、夕霧がお渡りになりました。
宮は、「本当に嫌でなりません。大人げないと言われようとも……」と決心なさって、塗籠(納戸)の中に閉じこもり、内側から鍵をかけてしまいました。
夕霧は、仕方なくご自邸にお帰りになりますと、若君たちが愛らしくまとわりついて来ますので、暫くご一緒にお遊びになりました。
雲居の雁は臥せていらっしゃいました。「私はとうに死にました。鬼と仰るので、そうなろうと思います……」
夕霧は、「御心は鬼のようですが、お姿が愛らしいので、嫌いになれません……」と申されましたが「他の女性に優美に振る舞っておられる貴方に、連れ添ってなどいられません。
共に過ごした年月さえ惜しく思われますものを……」と恨みなさるご様子は、誠に愛嬌があり美しく見えます。夕霧は「とても愛らしい人だ……」とお思いになりました。
ところが、一方で、御心はうわの空で「あの方が、もし尼になってしまわれたら…」と落ち着いていられません。日が暮れるにつれ気がかりになられ、今夜もお出かけになりました。
宮は、やはり塗籠に閉じ籠もっていらっしゃいまして、大将の君に逢おうとなさいません。
女房たちは気の毒に思い、夕霧を女房の出入り口から、そっと中にお入れしてしまいました。
宮は驚いて、単衣のお召物を御髪ごと被って、お泣きになりますので
「困ったものだ。どうしてこんなにまでお嫌いになるのだろう。前世の因縁が薄かったのか……」と溜息をつきながら、夜を明かしなさいました。
こんなにまで一途な夕霧のご性格を、宮は「呆れたこと……」とお思いでしたが、
やがて……疎ましく思うのは、自分の愚かな意地のためか……と、
思い改めるようになられました。塗籠の中は、香の御唐櫃や御厨子などが置かれ、ほの暗い感じでしたが、
朝日が優しく漏れ入ってきましたので、宮は被っていた単衣を脱いで、乱れた御髪を撫で、身繕いをなさいました。そして…………。
御手水やお粥などを、いつもの御座所で差し上げました。派手でないような山吹襲や濃い紫の衣に着換えなさいますと、宮は大層気品があり美しくいらっしゃいました。
北の方・雲居の雁は「これが最後のようだ……」と夫婦仲を見届けた気がして、大殿邸(実家)に帰ってしまわれました。
夕霧が驚いて三条邸に戻られますと、若君たちは母を慕って泣いていました。
「何とも可哀想に……」と心を痛められ、日が暮れるのを待って、大殿邸に参上なさいました。
「前世からの宿縁から、ずっと愛しい人と思ってきましたのに、可愛い子供達を見捨てて、どうしてここにいらっしゃるのか……」と酷くお恨み申し上げますと、
「私は、もう見限られた身ですので……」とお答えなさいました。
「なんと大人げない……。これで最後と仰るなら、そのようにしましょう。残された子供達も、このまま放っておくことはできませんから……」と毅然と申しなさいますので、
女君は「子供達を知らない所へお連れになるのか」と大層お嘆きになりました。
藤典侍(とうのないしのすけ)(惟光の娘・五節の舞姫[少女の巻])がこれをお聞きになり、雲居の雁をお慰め申し上げました。
数ならば身に知られまし世の憂さを 人のためにも濡らす袖かな
昔、大殿に二人の仲を遠ざけられていた時に、夕霧はこの舞姫だけを密かに愛しなさいましたが、雲居の雁を正妻に迎えられてからは、お通いも疎遠になってしまいました。
子供達は大勢になり、こちらに七人、藤典侍に五人おりました。
それぞれにとても愛らしく立派になられ、幾人かは六条院に引き取られて可愛がられていました。
このお二人の話は、語り尽くせないほどございますが、いずれ……
( 終 )