紫式部 源氏物語 夕 顔(ゆうがお)ー第四帖

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源氏物語(1) A・ウェイリー版 [ 紫式部 ] - 楽天ブックス
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源氏の君がお忍びで六条の御息所(みやすどころ)の御邸にお通いの頃、大弐(だいに)の乳母(めのと)が重い病気になられましたので、お見舞いにおいでになりました。

御車が入る門が閉ざされていましたので、惟光(これみつ)(乳母の息子)をお待ちになる間、大路の辺りをご覧になりますと、

その家の隣に、御簾などを清々しく整えた涼しげな家がありました。簾を透して美しい人影がこちらを覗いている様です。

その家の板塀には青々とした蔓草(つるくさ)が這いかかり、白い花が美しく咲いていました。

「遠方の人にお尋ねする……」と独り言を仰いますと、随身が跪(ひざまず)いて、
「その花は夕顔と申します。このような賤(いや)しい垣根に咲く花でございます」

花を一房折りますと、家の中から可愛らしげな女童が出てきて、
「これにのせてお目にかけて下さい。枝も風情のない花ですので……」と、香を焚きしめた白い扇を差し出しました。

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ちょどその時、惟光(これみつ)が門を開けて出てきました。御車を引き入れて中にお入りになりますと、兄の阿闍梨や三河守などが集まっていて、源氏の君にお見舞い頂きましたことを大層恐縮しておりました。

尼君も起き上がって、「惜しくもないわが身ですが、こうしてお逢いできましたので、心残りなく旅立つことができましょう」と弱々しく泣きました。

源氏の君も、「避けられない別れとは言え……」と悲しく涙を拭われました。

お帰りになる時、先程の扇をご覧になりますと、扇には、心あてに それかとぞ見る白露の 花にそえたる夕顔の花

(訳)もしや貴方様でしょうか。白露の光に添えてなお美しい夕顔の花は……

淡い墨つぎもゆかしく書かれていましたので、源氏の君はどのような姫君がおられるのかと、大層興味深くお感じになりました。

寄りてこそ それかとも見め黄昏に ほのぼの見つる花の夕顔

(訳)もっと近寄ってはっきり見たらどうでしょう。黄昏にぼんやりと見えた花の夕顔を……

源氏の君はどんな姫君が住んでいるのか、惟光に調べさせなさいましたが、
「誰なのか全く分かりません。

世間にひどく隠れて暮らしておりまして、主人と思われる男が稀に来るようです。

先日、牛車が来た折に、女童が『右近の君、中将様が……』と言っているのが聞こえました。

小さい子もいるようですが大層隠しております」と、ご報告申し上げました。

それを聞いて、「もしや……以前、雨の夜に、頭中将が話していたあの身を隠した女ではないか……」と思い当たられました。

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いつしか秋になり、源氏の君は葵上の所にもたまにしかお渡りにならず、六条の御息所に対しても、以前のように一途になられることはなくなりました。

惟光が君の御心に添うように段取りをつけましたので、この頃は夕顔の宿にお通いでございました。

ささやかな庭には しゃれた呉竹が美しく、秋草の露が二条院のそれと同じように美しく輝いておりました。

夕顔の姫君は大層なよやかで美しく、白い袴に薄紫色の柔らかい衣を重ねた愛らしいご様子に、源氏の君は狂おしいまでに心惹かれてしまいました。

人目を憚って、お通いにならない夜などは、胸が苦しいまでに恋しく想われますので、「誰にも知らせず二条院に迎えてしまおうか。

今までにこれほど女に惹かれることはなかったのに、どのような宿命であったのか……」とお思いになりました。

八月十五夜、満月の光が板葺きの隙間から差し込んで、ご経験のない庶民の住居の様子を珍しいと感じておられました。

暁近くになりますと、隣家の男達の声や、衣を打つ砧の音などが、枕元に聞こえてきて耐え難く思うこともありましたが、愛情の深さゆえ、全てが許されるようでございました。

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月が隠れ明け行く空の美しい頃、「どこか静かな所で夜を過ごしましょう……」と、夕顔の姫君を軽々と抱き上げて御車に乗せ、某(なにがし)の別荘に移られました。

ところがその御邸はひどく荒れ果てて、大層不気味な様子でした。夕顔が恐ろしそうに怯えますので、ずっと添い臥して睦まじくお過ごしになりました。

光ありと見し夕顔の上露は たそかれ時のそら目なりけり

(訳)光輝いて見えた夕顔の上露は たそがれ時の見間違いのようです……
可愛らしく打ち解けるご様子は、不吉なまでに愛らしくいらっしゃいました。

夜深く過ぎる頃、うとうとなさいますと、枕元に幻のように美しい女が現れました。

「私がこんなにお慕いしていますのに、何の見どころもない女をご寵愛なさるとは……何とも恨めしうございます……」と申しました。

源氏の君が 物怪(もののけ)に襲われる思いで目を覚ましますと、辺りは灯が消えて真暗闇。太刀を抜いて魔除けにし、家来を起して紙燭を灯すよう命じました。

急いで御几帳の内に入りますと、何と夕顔がうち臥して息をしていません。

「これはどうしたことだ。魔物にでも魅入られてしまったか……」と、揺すってごらんになりましたが、なよなよとしてどうしようもありません。

紙燭を近づけて見ますと、枕の上に、先程の夢に現れた女が幻影のように現れて、ふっと消えました。源氏の君は驚いて夕顔を抱き上げ、

「愛しい人よ、生き返って下さい……。私をこんな悲しい目に遭わせないでください」とお泣きになりました。けれども……やがて身体もすっかり冷えて、息も絶え果ててしまいました。

夜中も過ぎ、荒々しい松風が吹き、灯火がゆらゆら揺れました。屏風の上に影が現れ、魔物の足音が迫ってくるような気がします。

「どうしてこんな恐ろしい所に姫君をお連れしてしまったのだろう。

……何の因縁で、このような辛い目に遭うのか……」と思いながら、闇夜が明けるまでの待ち遠しさは、千夜を過ごす気がなさいました。

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ようやく惟光が参上いたしました。源氏の君は気丈夫を装っておられましたが、この人の顔を見てほっとなさり、ただ留めもなくお泣きになりました。

まず夕顔の亡骸を、東山の寺に移すことになりました。

源氏の君はお抱きになれないようなので、惟光が夕顔を筵(むしろ)に包んで御車に乗せました。

亡骸はとても小柄で可愛らしく、美しい黒髪が溢れるのをご覧になって大層お泣きになりました。

夜が明けてきました。「人が騒がしくならないうちに……」と惟光に促され、源氏の君は先に二条院に戻られました。

ご寝所に入られましたが、お寝すみになれません。

「どうして夕顔に付き添って行かなかったのだろう。もし生き返った時、見捨てて行ってしまったと、悲しく思うだろうに……」 気が動転して胸が咳き上げ、とても息苦しく「このまま自分も死んでしまうのだろうか……」とお思いになりました。

日が暮れて、惟光が戻って来ました。源氏の君は袖を顔に押し当てて泣きながら、
「夕顔はどうであったか……」とお尋ねになりました。

「もはやご最期のようでございました。明日は日柄がよろしいので、葬儀のことを知合いの老僧に申しつけてまいりました。

……お二人はこうなる運命に決まっていたのでございましょう。

誰にも知られてはなりません。私が万事始末いたしますので、ご安心ください」と申し上げました。

源氏の君は、「どうしても今一度、夕顔に逢いたい……。亡骸を見ないで、再び来世で生前の姿を見られようか……」と仰り、必死の思いで東山の寺へお出かけになりました。

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ご燈明の光が微かに漏れ、大徳が尊い声で経を読んでおりました。亡骸はとても可愛らしい様子をしていました。

源氏の君は夕顔の手を握って、「もう一度、声だけでもお聞かせ下さい。

どのような因縁があったのか、少しの間でも、心の限りを尽くして愛しく想いましたのに、私を残して逝ってしまわれるとは……」と、声も惜しまずお泣きになりました。

帰り道、朝霧の立ちこめる中で、源氏の君は悲しみのあまり、馬から滑り落ちてしまわれました。

「こんな道端で、私も野垂れ死んでしまうのだろうか……とても帰り着けそうにない……」と仰いますので、惟光も困り果てて、鴨川の水で手を洗い清め、清水の観音を拝み申しました。

やがて何とか助けられ、二条院にお帰りになりましたが、それからというもの病床に臥され、源氏の君はすっかり衰弱してしまわれました。

夕暮れの静かな頃、少しご気分もよくなられ、右近をお召しになりました。

「なぜ、夕顔の姫君は身を隠しておられたのか……」とお尋ねになりますと、
「実は、ご両親を早くに亡くされ、ふとしたご縁で頭中将殿がお通いになられました。

去年の秋、北の方から恐ろしい事を言ってきましたので、怖がりなさって西の京に住む乳母の所に身を隠しましたが、そこが方角が悪く、方違えのため、あの賤しい家においでになる時に、源氏の君様に見つけ申されてしまったのです」

「そうであったか。頭中将が幼い子を行方知れずにしてしまったと嘆いていたが、その子は今どこに……。夕顔の形見として私に預けてくださいませんか」

「そうとなれば嬉しいことでございます。西の京でお育ちになるのはあまりにも不憫で、まして後見人もいないのですから……」とお答え申し上げました。

源氏の君は、「あの姫君とは、こういう宿世の仲だったのだあろう。……女は儚く頼りないように見えるのが愛しいもので、内気にふるまって、主人に従うのが可愛いいものだ。そういう気立ての女を、自分の思い通りに躾けたら、生涯、仲睦まじくいくでしょう…」等と仰せになりました。

右近は、「そういう方でしたのに、儚く亡くなられて口惜しうございます……」と、また涙を流すのでした。

見し人の煙を雲と眺むれば 夕べの空もむつましきかな

(訳)契った人の火葬の煙をあの雲かと眺めれば、夕方の空も親しく思われます。

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その一方で、源氏の君はあの人妻・空蝉のことを、お忘れになることはありません。

振られて終わってしまうのが誠に悔しく思われるものの、その冷淡な気持も、夫のためには立派ま態度であったと考え直しなさいました。

今もあの脱ぎ捨てた衣を傍らに置いておられました。

ある日伊予の介(空蝉の夫)が参上し「妻を連れて、伊予の国に下ります」と申しました。

源氏の君は心乱れ、小君に「もう一度だけ、空蝉に逢うことが出来ないものか」と頼みなさいましたが、今回はそれも難しいようでした。

お手紙を送りますと、その返事には不思議と恋しく想っている様子なので、なお一層忘れがたくお思いになりました。

伊予の介は神無月の一日に下ることになりました。空蝉も同行するということなので、格別に気を配って、お餞別をなさいました。

数多くの美しい扇や櫛などをお贈りになり、あの夜、脱ぎ残した小袿もお返しになりました。

蝉の羽もたちかへてける夏衣 かへすを見てもねは泣かれけり

(訳)蝉の羽の衣替えした後の夏衣は 返してもらっても泣けるばかりです

はや立冬となり、時雨れる空も哀れに思える頃、源氏の君は終日物思いにふけってお過ごしになりました。

過ぎにしも 今日別るるも二道に 行く方知らぬ秋の暮かな

(訳)亡くなった人(夕顔)も今日別れて行く人(空蝉)も それぞれの道に、行方も知れない秋の暮れよ……

( 終  )

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