紫式部 源氏物語 夢浮橋(ゆめのうきはし)ー第五十四帖

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薫大将は比叡山にお着きになり、御経や仏像等の供養をさせなさいました。

その翌日横川にあの僧都をお訪ねになりました。

「わざわざこんな山深く、よくおいで下さいました……」と、僧都は大層恐縮して、お迎え申し上げました。

周囲の人々が静かになりました頃、大将は小さな声で、
「小野に身を隠している女に、戒律をお授けになったと聞きましたが、本当ですか。

まだ年も若く、親などもいた人で、私がよく知る人なのですが、行方知れずになり、死なせたように恨み申す人がいますので、確かめたく思いまして……」と申されました。

僧都は、「やはり……普通の身分には見えない人でしたが、大将殿が深くお想いの人でしたか。

考えもなく、私が尼姿にしてしまったとは……」と胸が苦しくなられ、

「実は、初瀬の帰りに助けた若い女を、妹尼のいる小野に連れ帰ったのです。

その後三ヶ月は死んだように伏せていましたが、御修法をしましたところ、生き返って回復されました。

けれども、身に取り憑いた物の怪が離れないようで、悪霊から逃れて来世を祈りたい……と強く願われましたので、出家をおさせ申しました」

「そうであったか……。死んだと諦めていたが、あの浮舟が生きていたとは……」と、薫大将は、夢のような気持で、涙を抑えることができませんでした。

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「誠にご迷惑かと思いますが、私を小野に案内して下さい。

こうと聞いて知らぬ振りをすべき人ではありません。せめて話し合いたいと存じます」としみじみ仰いました。

僧都は「尼姿になっても、けしからぬ欲情に負ける者もいるというのに、お連れして罪障を作ることになりはしないか……」と躊躇い、心乱れておりました。

大将は、「私は幼い時から、出家を願う気持ちが強くございました。罪障を負うような事など、どうしてお願い申せましょう。

お疑いなさいますな。お気の毒な母親のことなどを話せば、きっと安堵いたしましょう……」とお話しなさいました。

そしてお供として連れて来た童の小君(弟)を呼び、
「この童こそが、その人の近親なのですが、これを遣わすことにいたしましょう。

まずはお手紙を、私の名は伏せて『尋ねる人がある……』とだけお書きください」と申しなさいました。僧都は早速手紙をその童に持たせました。

小君には、「お前は亡き姉君の顔を覚えているか。今はこの世に亡き人と諦めていたが、生きておられるようだ。……行って尋ねよ。

ただ母親にはお嘆きがいとおしいので、決して言ってはなりません」と厳重に口封じをなさり、昔からの随身をお付けになって、小野へ出発させなさいました。

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小野では、尼姿の浮舟が、山々の青葉を見ても気の紛れることもなく、ただ遣水の蛍を眺めながら、昔を悲しく思い出しておいでになりました。

遙か遠くの方から沢山の松明(たいまつ)が近づいてきました。

尼君たちも端近くに座って、
「どなたがおいでなのでしょう。ご前駆などがとても大勢見えます……」と口々に話し合っていました。

先払いの声の中に、昔、聞き慣れた薫大将の随身の声が混じって聞こえてきます。浮舟は大層心乱れて、長い月日が過ぎた今も、

昔がはっきり思い出されますので、阿弥陀仏に思いを込めて一心にお勤めをなさいました。

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小野の山荘に着き、僧都からの手紙を届けますと、そこには、
「今朝、ここに薫大将殿がおいでになり、貴女のご様子をお尋ねになりましたので、 詳しく申し上げました。

愛情深い御仲に背き、賤しい山寺で出家なさったことは、かえって仏の責めを受けましょう。

もとの御契りを間違わずに……。

一日の出家で  あっても、功徳は限りないものです。取りあえず小君が伺います」とありました。

浮舟が御簾の外にいる童を見ますと、それは紛れもなく仲良くしていた弟でした。

昔の事が懐かしく、母君のご様子を尋ねたくて、思わず涙が溢れました。

尼君は、その童が大層可憐で少し面影が似ている心地がしますので、
「弟君のようですよ。お話などなさりたいでしょうから、中にお入れしましょう」と、申しました。

浮舟は、「どうして……。今は私を亡き者と思っていますし、尼姿で逢うのも気がひけます。もし母君が生きておられましたら、お目にかかりたく存じますが……。

僧都の仰る大将殿には、絶対に知られたくありません。何とか人違いであると隠してくださいませ……」と仰いました。

小君が、もう一通、薫大将からの手紙を差し出しますと、それは昔と同じ美しい筆跡で、紙の香も素晴らしく、法の師と 尋ぬる道をしるべにて 思はぬ山に踏み惑ふかな

(訳)仏法の師と思って尋ねて来た道ですが、それを道標としていたのに
思いがけない山道に迷い込んでしまったことよ……

この子をお忘れでしょうか。貴女の形見として大切に見ております……」と書かれ、
とても愛情深く感じられました。

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浮舟は涙が溢れてお伏せになり、
「気分が掻き乱れるように苦しく……。いぇ、まったく思い当たることがありません。

気分が静まりましてから……やはり今日はこのお手紙はお持ち帰りください」と、手紙を広げたまま尼君にお返しになりました。

「物の怪のせいでしょうか。尼姿になられたのに、胸打つ事情がございますのでしょう。いつも以上に分別なくいらっしゃいます……」と申しなさいました。

「一言だけのお返事でも……」と申しましたが、

尼君が、「ただこのように何も仰らないご様子をお伝えください。雲の遙かな遠い所ではないのですから、また必ずお立ち寄りください」と申されました。

心密かに姉君に会いたいと思っていた小君は、それも叶わずに空しく帰りました。

薫大将は大層恨めしく「誰かが隠しているのだろうか……」と、想像の限りを尽くして、思い巡らしておられるのでした。

……1から54帖まで長きにわたりお付き合いいただきありがとうございました。

又いつの日か、別の作品でお会いすることを、楽しみにしております。( 完 )

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