図解でスッと頭に入る紫式部と源氏物語 (書籍) [ 竹内 正彦 ] – 楽天ブックス
源氏の君は熱病を患っておられました。
お呪(まじな)いや加持祈祷(かじきとう)をさせなさいましたが効果もなく、度々発作を起こされますので、病を治すと評判の聖(ひじり)が修行しておられる北山の寺にお出かけになりました。
三月も末の頃、山の桜はまだ盛りで、霞がかった山々は大層美しく、山歩きのご経験のない源氏の君には大層興味深く思われました。山寺は趣き深い佇まいをしていました。
大層尊いこの聖は、源氏の君に薬をお作りし、祈祷などをなさいまして、
「何かと気分を紛らわして、心安らかに……」と説きなさいました。
源氏の君は勤行をなさいまして、気を紛らわそうと後方の山に立ち出でて辺りを眺めますと、四方の梢が霞んで、それはまるで絵を見ているような美しい風景でした。
「このような所に住む人は、心に思い残すことはないだろう」と仰いますと、供人が、
「地方にはもっと素晴らしい景色がございます。例えば播磨の明石の浦は格別でございます。
あの国の前国司で、出家したばかりの者がおりますが、美しい娘を大切に育てているそうです……」等と申し上げました。源氏の君は少なからず関心をお持ちになったようでした。
やがて発作も治まりましたので、近くにある僧坊の辺りを歩かれました。
夕暮れの霞に紛れて、小柴垣のところからその家の様子を垣間(かいま)見なさいますと、西側の部屋に持仏を置き、ひとりの老尼が苦しそうに読経しておりました。
とても色白で上品な様子は、普通の人には思えません。
その傍に白い衣に山吹色の着物を着た、十歳ほどの愛らしい少女がおりました。
髪は扇を広げたようにゆらゆらと美しく、泣いてこすったような赤い顔で立っています。
「何事ですか……」と尼君が見ますと、「雀の子を犬君(いぬき)が逃がしたの。伏籠(ふせご)に閉じ込めておいたのに……」と悔しそうです。
「まぁ何と幼いことを……私が明日をも知れぬ命なのに、雀の子を追っているなんて……」
その少女はとても愛らしく、心の限りお慕いする藤壷の宮(継母)に大層よく似ていますので、源氏の君は思わず涙を落とされました。
「心惹かれる可愛い人を見てしまいました。どのような人であろう……この少女を恋しい人の代わりとして、毎日の慰めに見たいものだ……」とお思いになりました。
寺に戻り、横になっておられますと、その家から僧都が訪ねてきました。
「お忍びでこちらに来られたことをたった今、人から聞きました。
旅のお宿も拙僧の坊で準備すべきでしたのに……。同じ草庵でございますが、少しは涼しい遣り水の流れもご覧になれましょう……」と熱心にお勧め申しますので、お出かけになりました。
月も無い頃、遣り水に篝火を照らし、前栽には格別に風流を凝らしていました。
僧都はこの世の無常や、来世の話などを説いてお聞かせ申し上げました。
源氏の君は昼間見た少女の面影が恋しいので「ここにおられる方はどなたですか」とお尋ねになりますと、「亡くなりました按察使大納言の北の方で、私の妹でございます。
その娘は亡くなりましたが、女の子がひとり残されまして、ここに引き取っております」
なるほど、親王の御血縁なので、あの恋しい藤壺にも似ておられるのか……その少女と一緒に暮らして、自分の理想通りに育ててみたい……と強くお思いになりました。
「妙な話ですが、私をその少女のご後見としてお考え下さいませんか……」
突然の申し出に僧都は「まだ幼い年頃でございます。
尼君(妹)の病気が回復し、京に戻りましてから、改めてお返事申し上げましょう」とお答え申し上げました。
内裏では、藤壷の宮が体調を崩され、ご自邸にお宿下がりをなさいました。
ご心配なさる帝をお労(いたわ)しく拝しながら、源氏の君は「せめてこのような機会にこそ、お逢いできようか……」と、王命婦(おおのみょうぶ)(藤壺付きの女房)に何度も手引きを頼みなさいました。
どう計ったものでしようか。ある日強引にお逢いになりましたのに、藤壺にとって思いがけないこの逢瀬は、生涯忘れられない悩みになるとお思いになって、
「せめてこの一度だけで終わりにしよう……」と堅く心にお決めになりました。それでも優しくいじらしいご様子は、やはり誰よりも優れた女性に思われました。
見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちに やがて紛るる我が身ともがな
(訳)お逢いしても再び逢うのが難しい夢のようなことですので、
そのまま夢の中にに消えてしまいたい私でございます……
源氏の君が涙にむせ返っているのもお気の毒なので、さすがに宮も悲しくなられ、世語りに人や伝へむたぐひなく 憂き身を覚めぬ夢になしても
(訳)世間の噂として語り伝えるのでしょうか、大層辛いわが身を、覚めない夢の中のこととして……
藤壺の宮が、この道ならぬ逢瀬にお悩みになるのも道理なことで、畏れ多く思われました。
二条院に帰られても、源氏の君は泣き伏してお過ごしになり、内裏にもおいでにならずに引き篭もってしまわれました。
宮は辛い身の上を大層お嘆きになり、ご病気もなかなか回復なさらず、暑い頃には、床に伏せたままお起きにもなりません。
三ヶ月なると、人目にもはっきりご懐妊と分かるようになりましたので、この運命を大層怖ろしいと思い悩まれました。
宮の御心ひとつには、はっきりと思い当たる事がありましたので、ご自分の罪を意識なさいまして、人知れず大層お苦しみになりました。
七月になり、ようやく内裏に上がられますと、帝には 懐妊なさいました藤壷の宮へのご寵愛がますます募られ、ご気分のすぐれぬ折にはお慰めしようと、暇なく源氏の君をお呼びになり、お琴や笛などを様々に奏でさせなさいました。
源氏の君はご自分の気持をじっと抑えておられましたが、忍びがたい愛が態度にでてしまう折には、藤壷の宮もすげなく拒む態度を取りながらも、源氏の君を愛しく想い続けておられたのでございました。
源氏の君にとって秋の夕べは、心の暇(いとま)ないほどに藤壷への想いが募りますので、あの北山で見つけた少女を、二条院に引き取りたいという身勝手な気持がなお一層強まるようでした。
手に摘みて いつしかも見む紫の 根に通ひける野辺の若草
(訳)手に摘んで早く見たいものだ。紫草(藤壺)に縁(ゆかり)のある野辺の若草を
その十月、朱雀院への行幸が行われるため、源氏の君はその準備に忙しい日を送っておられました。
北山にも久しくお見舞に伺わなかったので、ある日、遣いの者をやりますと、僧都からの返事だけがありました。
「尼君は空しく亡くなられました。人の宿命とはいえ悲しく存じます」とありました。
忌みが明け、皆が京に戻られたことをお聞きになった源氏の君は、ご自身でお出かけなさいました。
少納言が臨終の様子を泣きながらお話し申し上げますと、源氏の君もお袖を涙で濡らしなさいました。
あの愛らしい姫君は今も祖母君を恋しがって泣き伏していましたが、人の気配に、
「少納言、父宮がおいでになったの……」と乳母の側に寄ってきました。
源氏の君が、「宮様ではありませんが、こちらへ……」と申されますと、子供心にあの素晴らしい方だと聞き分けて、恥ずかしそうに、「もう行きましょう。眠くなりましたの……」と乳母に甘えて仰いました。
「どうして逃げるのです。私の膝でお寝すみなさい」と、源氏の君が御簾にお入りになりますと、乳母が困った様子でいますので「このように幼いお年の方を、どうするものですか。世間にない私の愛情を見届けてください……」と申されました。
外は霰が降り荒れて、恐ろしい夜の様子です。
このような心細い御邸に幼い少女を見捨てて帰り難く思われた源氏の君は「格子を下ろしなさい。私がお守りしましょう」と物慣れた態度で、御帳台の中にお入りになりました。
姫君が怖がって震えていらっしゃるのを、いじらしくお思いになって、単衣で身体を包んで横に添い臥しなさいました。
姫君は幼い心にも物怖じせず、けれども寝入ることもできずにじっと臥していらっしゃいました。
一晩中、風が吹き荒れました。「源氏の君がおられなければ、どんなに心細かったことか。お似合いのお年なら良かったのに……」と女房達はささやきあっておりました。
「父宮は宮邸に引き取ると仰いましたが、故尼君の四十九日が過ぎてからと思われます」と乳母が申し上げますと、「父宮は頼りになるお血筋ですが、ずっと別々にお過ごしでしたから、疎遠に思われるでしょう。
私の深い愛情は父宮にも勝っております……」と仰り、ひとまず二条院にお帰りになりました。
その日、源氏の君は左大臣の御殿におられましたが、やはり葵の上はすぐにはお逢いになりません。
何となく面白くないので和琴を掻き鳴らしておられますと、惟光が参上いたしました。
「明日、父宮が姫君をお迎えに来られます……」とご報告申し上げますと、君は驚いて、急いで惟光に準備をさせ、姫君の家の門を叩かせなさいました。
女房たちは大層驚き慌てておりました。
源氏の君はご寝所にお入りになり、まだ眠っている姫君を抱き上げて御車に乗せ、大層忍んで二条院にお連れしてしまいました。
西の対に御車をよせ、姫君を軽々と抱いて下ろしなさいました。
惟光に御几帳や寝具などを設えさせ、お寝すみになりました。
姫君が、「少納言の側で寝たい……」と幼く仰いますので、
「今日からはそのようにお寝すみになるものではありませんよ」とお教え申しました。
とても悲しく泣きながらお寝すみになりました。
源氏の君はしばらくは内裏にもおいでにならず、面白い絵や遊び道具などを取りよせて、一日中姫君のお相手をなさいました。
鈍色の喪服を着て無心に微笑んで、機嫌良くなさっているご様子は、とてもあどけなく、いじらしくいらっしゃいました。
ねは見ねどあはれとぞ思ふ武蔵野の 露分けわぶる草のゆかりを
(訳)まだ一緒に寝てはみませんがとても愛しく思われます
武蔵野の露にてこずる紫にゆかりの若草(少女)よ
日が経つにつれ、姫君はこの後(のち)の親(源氏の君)にすっかり慣れ、大層慕ってつきまといなさいました。
源氏の君が外からお帰りになりますと、真っ先にお出迎えなさって、懐に抱かれても、少しも恥ずかしいとも思わず、誠に愛らしいご様子でした。
「この姫君は風変わりな大切な子……」と、源氏の君は大層可愛がりなさいました。
( 終 )
(こうして紫上の二条院での暮らしが始まったのでございます)