眠れないほどおもしろい源氏物語 (王様文庫) [ 板野 博行 ] – 楽天ブックス
今まで女性から冷たくされたことのない源氏の君は、かえってこの人妻に心惹かれてしまいました。
夜はお寝すみになれないまま、「初めて男女の仲を辛いと思い知った……どうしてもあの女を忘れることができない」と、涙まで流して臥しておられました。
小君(人妻の弟)をお呼びになり、「適当な機会を見つけて、何とかもう一度逢わせてほしい」とお頼みになりました。
ある日、紀伊の守が任地へ下り、女だけが寛いで家にいる時に、小君はそっと源氏の君を家にお連れしました。
東の妻戸のところでお待ちになる間、御簾の陰から中を覗いて見ますと、暑さのために几帳の垂絹を掛け上げていますので、座敷の方までずっと見通せました。
二人の女が碁を打っています。中柱に寄り掛かって座っている後ろ姿が、恋しい人のようです。
紫の濃い綾の単衣をかけて、ほっそりした小柄な女性でした。
もう一人は、色白のよく肥えた若い女で、朗らかな人のようです。
淡い藍色の小袿をかけて、着物の襟がはだけて美しい胸を露わにしています。
こうした少々だらしない女も、源氏の君には魅力的のようでした。
やがて碁を打ち終えたのか、衣擦れの音がして、女達が部屋に下がる気配がしました。
家の中が寝静まった頃、小君は源氏の君を部屋に導き入れました。
その人妻は、あの夢のような一夜を思い出し、夜は寝覚めがちにおりました。
もう一人の若い女は傍らでもう無心に寝てしまったようです。
暗闇の中に、君の衣擦れの音が聞こえ、御衣に染み込んだ薫物の香りがさっと広がって、御几帳の陰ににじり寄ってくる気配がはっきり分かりました。
それに気づいた人妻は、そっと寝床を抜け出してしまいました。
源氏の君は女が一人寝ていましたので嬉しくなり、被っていた衣を押しのけて寄り添いなさいました。あの夜の女よりも何か少し大柄な感じがします。
……ようやくあの恋しい人妻でないとお気付きになりましたが………。
目覚めた女は驚いている様子でしたが、この若い女の無心で初々しい感じもいじらしいので、将来をお約束し、人にはこの秘密を言わないようにと口止めなさいました。
源氏の君にとっては、この若い女には心惹かれるようなところもなく、やはり無情に身を隠した人妻こそが、恋しく思われるのでした。
その女が脱ぎ残していった空蝉のような薄衣を手に持って、部屋をお出になりました。
源氏の君は二条院に帰り、恋しい人妻に逃げられてしまった今夜の出来事を恨めしくお思いになりました。
持ち帰ったその薄衣には、恋しい女の匂いが染みついていとおしく、源氏の君はご自身の傍らから離さずに、
空蝉の身をかへてける木のもとに なほ人がらの懐かしきかな
(訳)蝉が殻を脱ぐように、衣を脱ぎ捨てて去って行った貴女ですが、やはり人柄が慕わしく思われます……
そのつれない人妻(空蝉)には、源氏の君の真心が深く感じられて、「娘の頃にお逢いしていたのなら……」と、帰らぬ運命を悲しく思っておりました。
( 終 )