図解でスッと頭に入る紫式部と源氏物語 (書籍) [ 竹内 正彦 ] – 楽天ブックス
匂宮は、あの夕暮、西の対で出逢った姫君を忘れられませんでした。
もともと浮気なご性格ですから「誠に残念なところで終わってしまった……」と悔やまれ、中君をお恨みなさいました。
中君は、「ありのままに申し上げてしまおうか……。でもあの母君が心尽くして隠しておられますのに、軽々しく話そうものなら、そのままお聞き流しなさる匂宮でもなし……」と、
大層思い悩み、ただ黙り通すことを心に決めておられました。
一方、そんなことは全くご存知なく、薫大将はのんびりとお考えで、
「いずれはあの姫君を心を込めて扱ってやることにしよう。
暫くは誰にも知らせずに、このまま山里に……」とお思いになり、姫君をお移しする住まいを、京に内密に造らせておいでになりました
正月の上旬が過ぎた頃、匂宮が二条院にお越しになりました。
とても愛らしくなられた若君のお相手をしておられますと、幼い童女が無邪気に走って来て、小松に結びつけられた御文を中君に差し上げました。
匂宮が、「どこからですか」とお尋ねになりますと、中君は落ち着かないご様子です。それにはとても若々しい女性の筆跡で、もの悲しい様子が細々と書かれていました。
宮は、「一体、誰からの手紙か……」と再度お尋ねになりますので、中君は仕方もなく、
「昔、宇治で父宮に仕えていた女房がおりまして、その娘が、最近あちらに来ていると聞きました……」と申し上げました。
「それは……もしや、あの夕暮れに逢った女では……」
匂宮は心がときめきました。ご自分のお部屋にお帰りになって、
「何ということ……。薫大将がこっそり宇治にお通いになり、夜はお泊まりになる時もあると聞いていたが、実は女を隠しておられたのか……」と思い当たられました。
「何とかして、それがあの夕暮れに逢った女か、確かめてみたいものだ……」とお思いでございました。
それからは、ただこの女のことばかりを考えておられました。大内記をお呼びになり、ある日、こっそり宇治へお出かけになり、宵を過ぎた頃にお着きになりました。
寝殿の南面に燈火がちらちらと見えて、さやさやと衣擦れの音がしました。
格子の隙間からお覗きになりますと、燈火を照らして、女房たちが縫い物をしています。
とっさの見間違いかと思われましたが、あの夕暮れに見た童女や右近までもおります。
そしてあの姫君はゆったり燈火を眺めていらっしゃいました。
その目元や黒髪の様子が、大層上品で優美に見えました。匂宮は、
「何としても、この女をわがものにしたい……」とお思いになりました。
夜が更けて、匂宮がこっそりと格子を叩きなさいますと、それを右近が聞きつけて、
「どなたですか。夜は大層更けましたものを……」と出てきました。
匂宮は 薫大将の声をうまく真似て「ここを開けなさい。道中酷い目に遭ったので、みっともない姿をしています。燈火を暗くなさい……」と申されました。
別人とは思いもよらず、戸を開け、慌てて燈火を消しましたので、辺りは暗くなりました。
すると匂宮はお召物を脱ぎ、素早く姫君に近寄って 隣にお伏せになりました。
「あの日からずっと恋しく想っておりました」などと訴えなさいますので、 姫君はすぐ薫大将でないとお気付きになり、「この方は匂宮……」とお分かりになりました。
夢のような気がして……どうすることも出来ずに、ただお泣きになりました。宮もようやく逢えたことが嬉しく、思わず涙ぐみなさいました。
夜が明けて退出する頃になりましたが、お互いに心から愛しく思われ、一時でも離れることができません。
姫君は普段ゆったりと穏やかな人(薫)を見馴れていましたので、
「少しの間でも逢わずにいたら死んでしまう……」と恋い焦がれる匂宮に、すっかり心惹かれてしまいました。
匂宮は「こんなによい女を、他に知らない……」と狂おしいまでにお想いになり、
「薫大将にこの秘密が知れた時には、
どんなであろう。貴女が恨まれなさるのか……」とご心配なさり、一層愛おしくお想いになりました。
やがて供人がさかんに帰京を促しますので、霜の深い明け方、馬にお乗りになりましたが、大層辛く……魂の抜けた思いで帰路につかれました。
月が変わり如月(きさらぎ)になりました。少しのんびりした頃、薫大将は大層忍んで、宇治へお出かけになりました。
姫君は、激しく一途であった匂宮のご様子が思い出され、薫大将にどうしてお逢いできようかと、胸が潰れる思いでした。
大将の直衣姿は大層美しく、ご様子が格別でしみじみと暖かい感じがしました。
将来末長く信頼できる方として、やはりこの上なく勝っている……とお思いになりました。
「今造らせている御邸は、ここよりも優しく川が流れ、美しい花々も咲いております。そこにお移りになれば、いつでもお逢いできますから、ご不安も消えましょう。
春頃にお連れ申します……」と心深く仰いました。
姫君は、「匂宮に心変わりすべきでなかった……」と反省しながらも、匂宮のお姿が面影に現れますので「辛く情けない……」と思い悩みなさいました。
二月の夕月夜、お二人は端近くに伏して……薫大将は亡くなった大君のことを思い出し、姫君は心変わりしたご自分の御心を嘆いておられたのでございました。
二月十日頃、宮中で作文会が催され、匂宮をはじめ薫大将も参内なさいました。
雪が降り風が激しく吹きましたので、御宴は早目に終わりました。大将が、
「さむしろに 衣片敷(ころもかたし)き今宵もや われを待つらむ宇治の橋姫……」と古歌を口ずさみなさいましたので、匂宮は御心が大層騒ぎ、
「それほど姫君を想っているのか……。どうしたら姫君の愛情を自分に向けることができようか」と悔しく思わずにいられません。
早速、雪の宇治へお出かけになりました。
京ではわずかばかり残っている雪も、山奥に入るにつれて深くなっていきました。
夜が更けてからお着きになりましたが、人目が憚られるので川向こうの時方(ときかた)の荘園に、姫君をお連れしようと、準備をさせなさいました。
右近に引き止める余裕さえも与えずに、姫君を抱き上げて、小舟にお乗せになりました。
漕ぎ渡るときには、姫君は心細くお思いになり、ぴたりとくっついて抱かれていらっしゃいますので、大層いじらしくお感じになりました。
有明の月が美しく、川面も澄んでおりました。
「……ここが橘の小島……」と、小舟を止めさせなさいますと、島には青々と常磐木が茂っていました。
年経ども変わらぬものが橘の 小島の崎に契る心は (匂 宮)
(訳)何年たとうとも変わりません 橘の小島の崎で契る私の心は……
橘の小島の色は変わらじを この浮舟で行方知られぬ (浮 舟)
(訳)橘の小島の色は変わらなくとも、浮舟のような私はどこへ行くのか……
小舟から降りる時もお抱きになって御邸に入られました。
軒の氷柱がやがて差しだした陽に輝いておりました。
匂宮のお姿は一段とご立派に見え、姫君(浮舟)も上着を脱がされていたので、ほっそりとした身体つきが大層美しく魅力的でした。
人目を気遣うこともなく、大層打ち解けてお過ごしになりました。
二条院に帰られてから、匂宮は気分が悪くなられ病床についてしまわれました。
春雨が降り止まずに幾日も続き、山里に訪ねることのできない匂宮は、尽きない想いをお手紙にお書きになりました。
眺めやるそなたの雲も見えぬまで 空さへ暮るる頃の侘びしさ
(訳)眺めているそちらの方の雲も見えないほど、
空までが真っ暗になっている今日この頃の侘しさよ……
「浮気な方と聞いていましたのに、その熱い言葉にすっかり心惹かれてしまいました。
末長く信頼する方としては不安もあり……、あの大将殿に知られたら、どんなに辛いことでしょう……」と深く思い悩んでしまわれました。
ちょうどそこへ薫大将からもお手紙が届きました。
あれこれ見るのも辛い気がして、そのまま臥せっていらっしゃいますので、女房達は、
「やはり心が移ってしまわれたのか……」と目を見合わせておりました。
そこに母君がおいでになりました。弁の君を呼んで、
「最近、渡守の小さな孫が、棹を差しそこねて川に落ちてしまいました。
本当に命を落とす人の多い川でございます……」などと話をしていました。浮舟は、
「もし私の行方が分からなくなれば、
皆は暫くはお悲しみになるでしょうけれど……、生長らえて物笑いにでもなれば、何時その苦しみから逃れることができましょうか……。
やはり……この川に身を投げて……」と恐ろしい事が頭を過(よ)ぎりました。
川の水音が一層恐ろしく響き渡りました。
薫大将は、内裏を退出なさいます時に、随身が意味ありげな顔をしていましたので、呼び寄せなさいました。
何事かお尋ねになりますと、「今朝、宇治の時方の荘園に仕えている男が、西の妻戸のところで、紫の薄様の手紙を女房に手渡すのを見ました。
不思議に思って後をつけさせましたところ、匂宮邸にその返事を届けました……」と申し上げました。
薫大将はいろいろ思い合わせ、ふと思い当たられました。
「まさか匂宮が……油断のならない方よ。どのようにして浮舟に言い寄りなさったのだろう……。山里なのでこのような過ちは起こるまいと思ったのが、何とも浅はかだった。
今後は宇治の警護を一層厳しくすることにしよう。……それにしても、昔から親しい私を裏切って、そんなことをしてもよいものか……」と、誠に腹立たしく思われました。
「しかし……難しいのは人の心。可愛らしくおっとりしていると見えながらも、浮気な心のある姫君だったのか。匂宮のお相手としてはお似合いかもしれない……」
もともと穏やかなご性格から、ご自分から身を引こうかとお思いになられたものの、
「これ限りで浮舟に逢わなくなるのは、何とも辛いことだ……」と、
体裁の悪いほど思い悩んでしまわれました。
やはり浮舟を見捨てがたく、宇治にお手紙を遣わしなさいました。
「……心変わりするとは思いもよらず、いつまでも待ち続けてくださるものと信じておりました。どうぞこの私を世間の物笑いになさらないで下さい……」とありました。
浮舟は「まさか……お気づきになられたのか……」と辺りが真っ暗になりました。
けれども今は気強く装って、「宛先が違うようにみえます。気分もすぐれませんので何も申し上げられません……」と書き添えて、そのまま手紙をお返しいたしました。
薫大将は微笑まれ、
「うまく言い逃れた……」と、今でも浮舟を愛しく思い、憎み切れないご様子でした。
この薫大将のお手紙がきてから、浮舟はますますお苦しみになりました。臥せていらっしゃるその横で、右近と侍従が話をしています。
「姉が常陸国で二人の男と結婚しました。男たちはそれぞれに負けない愛情を見せましたが、女は新しい男に心が移りましたので、それに嫉妬した男が新しい男を殺してしまいました。
誠に縁起の悪い話ですが……、さらに身分の上下が関わるならば、身分の高い方には、死にまさる恥でございましょう……」
これを聞いて、浮舟はただもう茫然として、胸潰れる思いがしました。
「なるほど……万一このような恐ろしい事が起こったら、どんなに物笑いになることでしょう。何とか死んでしまいたい……」と深く思い込んでしまわれました。
その頃、匂宮は「浮舟の手紙が途絶えがちなのは、きっと大将が浮舟を言い含めてしまったからに違いない……」とお思いになり、恋しさを晴らしようもないので、大変な決意で宇治にお出かけになりました。
葦垣の所に、いつもと違って警護の男達が立っていました。
「何とか姫君にお逢いして、ただの一言でも申し上げたい事が……」と訴えましたが、許されることもなく、空しく京にお帰りになりました。
いづくにか身をば捨てむと白雲の かからぬ山も泣く泣くぞ行く
(訳)どこに身を捨てようか。白雲がかからぬ山も泣きながら帰って行きます
それを聞いて、浮舟はますます思い乱れ、遂には泣いてしまわれました。
今は母君がとても恋しく思え、あの薫大将もどのようにお思いになるだろうか……と、お気の毒に思われました。
頼りなさそうに、御経を読み終え「親に先立つ罪障をお許し下さい」と、心からお祈りなさいました。
夜になり、眠れぬまま川の方を眺めていますと、「死」に近づく感じがいたしました。
骸をだに憂き世の中に留めずば いづこを墓と君も恨みむ
(訳)亡骸さえこの辛い世の中に残さなければ
何処を墓として貴方はお恨みになるのでしょう……
母君の手紙に書き添えて、
鐘の音の絶ゆる響きに音を添えて わが世尽きぬと君に伝へよ
(訳)鐘の音が絶えていく響きに音を添えて、
私の命も終わったとあの人に伝えてください……
( 終 )