紫式部 源氏物語 須磨(すま)ー第十二帖

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朧月夜の尚侍(ないしのかみ)との密会が発覚して、源氏の君は位官剥奪(はくだつ)の身となられました。

右大臣方の攻勢が一層激しくなりましたので、更に深刻なお咎めを受けることになる前に、人里遠く離れた須磨に、自ら退いてしまおうと決心をなさいました。

しかし京を離れるには何かと心残りが多く、紫上が「どんな辛い旅でも、ご一緒ならば……」とお泣きになりますので、

「これが永遠の別れの旅立ちになるかもしれない……」と、大層悲しく思われました。

須磨に発つ前に、左大臣邸にお渡りになりました。亡き葵の上のお部屋は大層寂しげでしたが、その若君(夕霧)は愛らしくはしゃいでいました。

源氏の君は膝の上にお抱きになりまして、悲しみを一心に堪えておられました。
左大臣がお逢いになりました。

「お見舞いに伺おうかと思いましたが、わが身の病気を口実に、朝廷にもお仕えせず官職も返上していますので、私事に出向いて、世間の悪い噂になってもいけないと留まっておりました。

源氏の君の悲運を見るにつけても、亡くなりました娘(葵の上)がもし生きていたら、どんなに悲しんだことでしょう。

よくぞ短命で、この悪夢を見ないで済んだものだ……と、僅かに慰めております。やはり前世からの因縁でしょう……」等と、しみじみお話しなさいました。

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お帰りになろうと外に出ますと、有明の月が美しく、木々の花が盛りを過ぎて、僅かに残った花の陰が朝霞に霞んで見えました。

源氏の君はしばらく高欄(手すり)に寄り掛かって、物思いにふけっておられますと、母宮から乳母に託して、

「目の前が眩むほど悲しみに取り乱しております。不憫な子が眠っているうちに、もうお帰りになりますのか……」と申されました。

鳥辺山燃えし煙もまがふやと 海人の塩焼く浦見にぞ行く (源氏の君)

(訳)あの鳥辺山(火葬)で焼いた煙に似てはいないかと
須磨の浦へ海人の塩焼く煙を見に行くのです……

亡き人の別れやいとど隔たらむ 煙となりし雲居ならでは (母 宮)

(訳)亡き娘との仲もますます遠くなるのでしょうか葵が煙となった空でなく、須磨の空なのですから……

悲しみが尽きることはなく、源氏の君がお帰りになりました後、また大層お泣きになりました。

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二条院に戻られますと、紫上は、御格子も下ろさずに夜を明かされ、物思いに沈んでいらっしゃいました。

まして紫上は父・親王にさえお手紙なさいません。

その北の方が、「源氏の君に引き取られたのに、何と束の間の幸せであったことか……不吉な事。

大事な人がそれぞれに去っていく運命の姫君のようです……」と申されたように漏れ聞きなさいまして、本当に情けなくお思いになりました。

他に頼りにする人もないのですから、お気の毒なことでございます。

翌日、日が高くなるまでお寝すみになりました。

師宮や三位中将が参上されましたので、源氏の君は無紋の直衣をお召しになりました。

大層地味になさいましたのに、かえって気品があって優雅に見えますので、鏡台に近寄りなさいまして、身はかくて さすらへぬとも君が辺り 去らぬ鏡の影は離れじ

(訳)わが身は流離おうとも、鏡に映った影は貴女の側を離れません

別れても 影だにとまるものならば 鏡をみても慰めてまし

(訳)別れても影だけはここに留まるのならば、鏡を見て心慰めましょう……

柱の陰に隠れて、涙を拭っておられるお姿は誠に愛らしく、
「やはり大勢の妻たちの中でも、比類のない姫君だ」と愛しくお思いになりました。

旅のご準備をなさいました。須磨生活の持ち物として、特に必要な品物だけを簡素に整え、漢文の書籍類と琴の一張りだけをお持ちになりました。

全てのことを西の対にお委せになり、ご所領の荘園や領地、証文などについても家司達をつけ、万事が取り仕切れるようになさいました。

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何と、尚侍の君(朧月夜の姫君)に、危険を冒してお便りをお書きになりました。
「今は最後とこの世を諦めた辛さは耐え難く……、

逢ふ瀬なき涙の河に沈みしや 流るる澪の初めなりけむ

訳)貴女に逢えず涙を流したのが、流浪する身のきっかけなのでしょう

姫君は大層悲しく、お袖から涙がこぼれました。

涙河 浮かぶ水泡も消えぬべし 流れて後の瀬をも待たずて

(訳)涙川に浮かんでいる水泡も消えてしまうでしょう
生きながらえて再びお会いできる日を待たないで……

花散里はひどく心細いご様子でおられました。

万事が源氏の君のご庇護のもとに過ごしてこられたので、これからは酷く荒れ果ててしまうことが予想され、お屋敷はただひっそりとしていました。

藤壷の入道の宮には「私が罰を受けるのは、ただひとつの事のためであり、もしわが身が亡きものになっても、春宮の御代が平穏無事であるように願うばかりです……」と申されました。

宮もお心当たりがあることなので、乱れた御心をお鎮めになるご様子は、誠に心惹かれるものでございました。

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見しはなく あるは悲しき世の果てを 背きしかひもなくなくぞ経る (藤 壺)

(訳)院は亡くなられ、生きている貴方は悲しいお身の上の世の末を迎え
出家した甲斐もなく、泣きながら暮らしております……

別れしに悲しきことは尽きにしを またぞこの世の憂さはまされる(源氏の君)

(訳)故院にお別れして、悲しいことは尽きたと思ったのに
またもこの世の辛さは勝っています……

悲しみのお二人なので、思っていることも十分にお詠みになれないようでした。

ご出発の前日、月の出るのを待って、桐壺院の御陵に参拝なさいました。

僅かばかりのお供を連れ、皆ただ侘びしく悲しい外出となりました。

賀茂の下の御社の側を通り過ぎる時、右近の蔵人が、葵を髪に挿してお供した御禊の日を思い出して、

「御利益(ごりやく)がなかったか……と辛く思われます」と申し上げますと、源氏の君もしみじみと悲しくお思いになり、馬から下りて、御社の方を拝みなさいました。

御陵の参道は草が生い茂り、踏み分けて入るにつれて、ますます露に濡れてしまいました。

月が雲に隠れて暗くなりますと、森の木々が大層深く恐ろしげでした。

すると故桐壺院が生前のお姿そのままに、現れたような気がしました。

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亡き影やいかが見るらむよそへつつ 眺むる月も雲隠れぬる

(訳)亡き父上はどのように御覧になっていられることだろうか
父上と思って眺めていた月も、雲に隠れてしまった……

すっかり夜も明けた頃にお帰りになって、東宮にお手紙を差し上げなさいました。
花が散ってしまった桜の枝に結びつけて、

いつかまた春の都の花を見む 時失へる山賤にして

(訳)いつかまた春の都の花盛りを見ることができましょうか
時を失った山賤のような身になって ……

東宮はこれをご覧になり、幼いながらも真剣なご様子で、
「少しの間でさえ逢えないと恋しく思われるのに、まして遠くに行ってしまったら、どんなに寂しいことか……」と仰いました。

平素からお仕えしてきた者たちは皆、そのご功労にあずかり、恩恵に浴することを喜んでおりましたけれど、今となっては厳しい右大臣勢力の下に、

厳しい目をくぐり抜けてまでお見舞いに参上する者はなく、「世の中とはこういうものか……」と、しみじみ悟りなさいました。

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ご出発の当日は、旅のご装束も大層質素になさって、夜明け前にお発ちになりました。

「命のある限りは一緒にと信じていたのに、儚いことだ……」と、紫上を悲しませないようにと、強いてあっさりと申しなさいますと、

惜しからぬ命に代へて目の前の 別れをしばしとどめてしがな (紫 上)

(訳)惜しくもない私の命に代えて、目の前のこの別れを
少しの間でも引きとどめて置きたいものです ……

面影がはっきりと浮かんで、胸潰れる思いで舟にお乗りになりました。追い風が吹き、やがてお須磨にお着きました。

須磨の浦は大層侘びしい海辺で、渚に寄せては返す波を見つめ、「羨(うらや)ましくも波は立ち返るよ……」と呟かれました。

更に霞みがかった遙かな京の山々をご覧になりますと、まるで三千里も遙か遠くに来たような心地がして、涙を抑えることができませんでした。

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故郷を峰の霞は隔つれど 眺むる空は同じ雲居か

(訳)故郷の都を峰の霞は遠く隔てるが、悲しく眺めている空は京と同じ空か

源氏の君のお住まいは、海岸から少し入った寂しい山の中で、茅葺きの建物に葦で葺いた回廊が巡り、場所柄に相応しくとても風情がありました。

近くの荘園の管理者を呼び、良清の朝臣が家司として、然るべき事をお世話申し上げました。ただ旅の生活にはご相談相手もいませんので、大層心細くおられました。

少し落ちついた頃には、源氏の君は京に手紙を書くことで心を慰めておられました。

二条院に御文を差し上げなさいますと、紫上はあれから枕も上がらず、悲しみに沈んでおいでになりました。

源氏の君が使っておられた御調度類や、弾き慣れた御琴をご覧になり、今はこの世にいない人のように思えて「縁起でもない……」と、御修法などおさせになりました。

旅先での寝具や直衣などを作ってお贈りになり「去らない鏡の……」とお詠みになった面影が浮かんでは、悲しみは尽きないようでございました。

浦人の潮くむ袖に比べ見よ 波路へだつる夜の衣を (紫 上)

(訳)須磨の浦の人のお袖とお比べになって ください。遠く波路を隔てた都で、独り袖 を濡らしている夜の衣とを……

伊勢の御息所にお手紙なさいますと、わざわざ使者が返事を持って訪れました。

「須磨のご生活も長く続くとは思えませんが、罪状深いわが身は、再びお逢いすることも遠いようで……」と、墨継ぎも美しく書かれ、教養の深さが窺えるものでした。

「もともとお慕いしていた方ですが、あの生霊を見て辛く思った心の行き違いから、遠く去って行かれたのだ……」と思い返しますと、

今ではお気の毒で申し訳ないことをした……と思い直しなさいました。

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尚侍の君(朧月夜)には、中納言の君(女房)に宛てた私事の手紙の中に入れて、送りなさいました。姫君からの返歌には、

こりずまの浦のみるめのゆかしきを 塩焼く海人やいかが思はむ

(訳)懲りもなせず、またお逢いしたいと思っていますが塩焼く海人になられた貴方様はどう思っておいででしょうか

尚侍の君は世間体を恥じて、深く思い沈んでおられましたが、右大臣や大后が、帝にお許し頂くように奏上しましたので、赦されて再び参内なさいました。

帝はいつもお側に伺候させなさいまして、愛情深く契りなさいました。けれども姫君は、内心、源氏の君をお忘れになれないようで、畏れ多いことでございます。

ある日、管弦の遊びの折に、帝は、
「源氏の君がいないのがとても寂しい。多くの人がそう思っていることだろう……」と優しいご様子で仰いましたので、

尚侍の君は思わずぽろぽろと涙を流されました。帝は「ほらごらん。誰のために流す涙か……」と仰いました。

須磨には、心寂しい秋風が吹きはじめました。皆が寝静まっている夜中、源氏の君は独り目を覚まして、四方の嵐を聞いておられました。

波がここまで寄せてくる気がして心細く、琴を少し掻き鳴らしなさいました。

その音色が辺りに寂しく響きますので、悲しさは募るばかりでした。

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物寂しい夕暮れに、海を見渡せる廊にお立ちになりました。遠い沖には小舟が浮かび、遙か京の空に向かって飛ぶ雁の列を眺め、涙を袖でお拭いなさいました。

初雁は恋しき人のつらなれや  旅の空飛ぶ声の悲しき

(訳)初雁は恋しい人の仲間なのだろうか。旅の空を飛ぶ声が悲しく聞こえます……

長い冬がきますと雪が激しく降り荒れ、都から訪れる人もすっかりなくなりました。

親しい人たちと御文を交わしておられましたが、それを大后に告げ口する者があって、やがて御文を交わす者さえもいなくなってしまいました。

「もうこのままわが人生は終わってしまうのか……」と、御心は沈むばかりでした。

年が明けて春が巡ってきた頃、宰相(さいしょう)の中将(もと頭中将(とうのちゅうじょう))が右大臣の厳しい目をくぐって訪ねて来ました。

お二人で久しぶりに詩歌をやりとりし、琴を奏でるなどして、しみじみ心深い時を過ごされました。幼い若君のことや、左大臣や大宮が悲しんでおられる様子などをお聞きになりますと、胸の詰まる思いがなさいました。

別れを惜しむ暇もなく、宰相の中将は振り返りながらお帰りになりました。

それからというもの、源氏の君の御心はますます悲しく沈んでしまわれました。

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三月の巳の日に、源氏の君は御祓(はらえ)をなさろうと海辺に出られました。

舟に人形(ひとかた)を乗せて流す儀式を見て、ご自分の身の上のようで心細くなられ、

知らざりし大海の原に流れ来て   人形(ひとかた)にやはものは悲しき

(訳)知らない大海原に流れきて 人形(わが身)が悲しく思われます……

更に過去や将来のことが胸に浮かんできますので、

八百(やお)よろづ神もあはれと思ふらむ  犯せる罪のそれとなければ

(訳)八百万の神も私を哀れと思っ下さるでしょうか。

これといって犯した罪がないのですから……その時突然空が真っ暗になり、辺りは激しい暴風雨に襲われました。

高波が打ち寄せ、雷が恐ろしげに轟き、「この世は終わるのか……」と思われるほどでした。

明け方近く、君がわずかに寝入りなさいますと、夢の中に怪しい物影が現れては消えました。

源氏の君は不気味になられて、もうここは耐え難いとお思いになりました。

( 終 )

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