紫式部 源氏物語 末摘花(すえつむはな)ー第六帖

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謹訳 源氏物語 一 改訂新修 [ 林望 ] - 楽天ブックス
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時が過ぎても、露のように儚(はかな)く亡くなられた夕顔の姫君を、お忘れになることができません。

これまでの姫君と違って、人懐っこく愛らしい夕顔のような女性はいないかと、今も恋しく想っておられました。

ある日、命婦(みょうぶ)(女房)から故常陸宮(ひたちのみや)の姫君のことをお聞きになりました。

父宮が亡くなられてからは、生活の後ろだてもないまま、惨めにひっそりと暮らしておられました。

お人柄やご器量などはよく分かりませんが、寂しい宵には、七弦の琴を親しい話相手として心慰めておられるようでした。

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源氏の君は心に留められ、十六夜の月の美しい夜、常陸宮邸を訪れなさいました。

荒れ果てた御邸で、姫君は梅の薫るお庭を眺めていらっしゃいましたが、命婦の勧めで、琴をほのかに掻き鳴らしなさいました。

その古風な琴の音は大層趣き深く聞こえました。命婦は気を利かせて、ほんの少しだけお聞かせして止めてしまいましたので、君は大層心残りに思い「もう少し身近でお聞かせ下さい……」とお頼みになりました。

けれども高貴なご身分に少し躊躇(ためら)いなさいまして、今夜は命婦にお気持だけを伝えてお帰りになりました。

左大臣邸にお渡りになりますと、先程の七弦の琴の音を思い出され、哀れなお邸も情緒があると思い直しなさいましたが、このお忍び歩きが世間の評判になるのは、少し体裁が悪い……などとお思いになりました。

その後、頭中将もこの常陸の姫君に恋文など送ったようですが、どちらにもお返事がなく、中将に競う気持から、君はまた命婦に手引きをお頼みになりました。

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八月二十日過ぎ、松の梢を吹く風の音も心細い夜、姫が琴を掻き鳴らしておられますと、源氏の君がお渡りになりました。

姫君は男性と逢う時の心得を全く知りませんので、命婦の勧めるとおり「ただお話を聞くだけならば……」と、格子を鎖してお逢いになりました。

源氏の君は大層優美なお姿で、御簾越しに熱い想いを語られましたが、姫君は全くお返事もなさいません。

いたたまれず御簾の中にお入りになりますと、姫君はただ恥ずかしく、むやみに怯えていらっしゃいますので、何かお気の毒に思え、溜息をつきながら退出なさいました。

後朝(きぬぎぬ)の御文(契りの後に交わす御文)も夕方になってから、思い出したように書かれましたが、その後のお通いはすっかり途絶えてしまいました。

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ある雪の降る日「せめて美しいご容貌ならば……」と思い立って、常陸宮邸をお訪ねになりました。

ますます雪は激しくなり、やがて夜が明けていきました。源氏の君はご自分で格子を上げて、前栽の雪景色をご覧になりました。

「美しい雪の空模様をご覧なさい。いつまでも打ち解けないのは辛いことです……」とお誘いしますと、姫君はいざり出てこられました。

そのご容姿を、見ぬふりをして、そっと横目でご覧になりますと……
お身体は胴長で大層痩せておりました。

青白く長い顔には紅い鼻が垂れ下がり、それはまるで普賢菩薩(ふげんぼさつ)が乗る象の鼻のようでした。

黒髪は誰にも劣らず美しいのですが、お召しになっている古く厳めしい御衣裳もすっかり色あせて黒ずみ、酷く香を焚きしめた黒貂の皮衣を着重ねていました。

「やはり……そうであったか……」と、胸が潰れる思いがなさいました。

「後見人もないお気の毒なご様子で、私と契りを結んだのですから、打ち解けて下さると本望なのですが……」と仰いましたが、ただ「むむっ」とお笑いになるだけで口が重く……嫌気がするうえに、何よりお気の毒なので、早々に退散してしまわれました。

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朝日さす軒の垂氷は解けながら などかつららの結ぼほるらむ

(訳)朝日がさす軒のつららは解けたのに
どうして氷(貴女の心)は解けないのでしょう……

源氏の君が内裏(だいり)の宿直所(とのいどころ)におられますと、命婦が常陸の姫君からの贈物を持ってまいりました。

その衣装箱の中には薄紅色の大層古い直衣(のうし)が入っておりました。源氏の君は呆れて、思わず呟きなさいました。

懐かしき色ともなしに何にこの 末摘花(紅花)を袖に触れけむ

(訳)特に親わしい花でもないのに なぜこのべにばな(・・・・)に手を触れたのだろう

「どうしてべにばな(・・・・)(紅い鼻)の姫君と契りを結んでしまったのだろう……」と、後悔なさいましたが、はっきりそのお姿をご覧になってからは、

「この姫君をお世話する男はあるまい。色恋ではなく後見人として、お気の毒な姫君の面倒を見ることにしよう……」とお決めになりました。

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春の大層のどかな日に、二条院で若紫の姫君と雛遊びをなさいました。

紅色の無紋の桜の細長をしなやかに着て、愛らしい若紫のお姿をご覧になって、
「こんなにも可愛い姫と一緒にいればいいものを……

なぜにこうも煩わしい事に関わってしまったのか……」と思いながら、髪の長い女の絵をお描きになり、鼻に紅色をつけなさいました。愛くるしい若紫の姫君は大層お笑いになりました。

麗らかな春の日、寝殿の紅梅の蕾が色づいているのをご覧になり、末摘花の紅い鼻を思い出されて、源氏の君は思わず溜息をつかれました。

このような姫君のこれからは、どうなるのでしょう……。

( 終 )

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