紫式部 源氏物語 絵 合(えあわせ)ー第十七帖

藤壷入道の宮はご病気がちになられましたので、幼い冷泉帝のお世話役として、少し年上の前斎宮(故御息所の娘)が入内されることを、熱心に勧めておられました。しかしこの前斎宮に好意をよせておいでの朱雀院は、誠に残念に思われ、 別れ路に添へし小櫛をかことにて 遥けき仲と神やいさめし  (朱雀院)(訳)別れの御櫛を差し上げたことを口実に、  貴女とは遠く離れた仲と、神がお決めになったのでしょうか 別るとて 遙かに言いしひとことも 帰りてものは今ぞ悲しき (斎 宮) (訳)別れの御櫛をいただいた時に仰せられた一言が    帰京した今となっては、悲しく思われます……  院はこれをご覧になって、しみじみ悲しくなられました。かつて源氏の君が須磨に退去するという命を下したその報いを、今お受けになったということなのでしょう。

紫式部 源氏物語 関 屋(せきや)ー第十六帖 「帚木・空蝉」の巻から十二年後の物語

桐壺院がご崩御された次の年、伊予介(空蝉の夫)は常陸の国司に任命され、空蝉を伴って下向してしまいました。空蝉は、源氏の君が須磨に退去された事を、遙か常陸の国で聞きましたが、心の内をお伝えする術(すべ)もなく年月が経ってしまいました。 源氏の君が京に戻られた翌年の秋に、常陸(ひたち)の守(かみ)も京に帰ることになりました。一行が逢坂の関に入る同じ日に、源氏の君が石山寺に参詣なさいました。

紫式部 源氏物語 蓬 生(よもぎう)ー第十五帖

源氏の君が須磨で侘びしく暮らしておられました頃に、都にもさまざまに思い嘆く御方がありました。  常陸宮(ひたちのみや)の姫君(末摘花)は、父宮が亡くなられ、後見人もない身の上になられまして、大層心細くお暮らしでございました。思いがけず源氏の君と契ることになり、援助を受けておられましたが、源氏の君が遠い須磨に去ってしまわれた後は、その頃の名残りで、しばらくは泣く泣く過ごしておられましたけれども、年月が過ぎるにつれて それも尽きて、大層惨めな生活になってしまわれました。もともと荒れていた御宮邸は狐の住み家となって、庭には蓬・雑草が生い茂ってしまいました。

紫式部 源氏物語 澪 標(みをつくし)―第十四帖

京に戻られた源氏の君は、まず父院の御霊供養のため法華御八講(ほっけみはこう)を催されました。 皇太后(もと弘徽殿の女御)は重いご病気になられましたのに、今も、「遂に、源氏の君を失脚させることが出来なかった……」と悔しくお思いでした。朱雀帝は故院のご遺言を思い、剥奪されていた源氏の君の官位をお戻しになりましたので、御心地も涼しくなられ、御目もすっかり回復されました。世間の人々は皆、嬉しいこととお喜び申し上げました。

紫式部 源氏物語 明 石(あかし)ー第十三帖

やはり雨風は激しく、雷も止まずに幾日も過ぎました。過去も未来もない悲しい身の上で、源氏の君は気強く考えることも出来ずに、「このまま、この地で身を滅ぼしてしまうのか……」と心細くお思いでございました。 ある日二条院から、ずぶ濡れの見窄らしい姿で遣者がやってきました。お手紙には、「雨風の止むこともなく、須磨ではどんなにか激しく風が吹いていることでしょう。心配で袖を濡らしております……」と悲しい気持ちが書き連ねてありました。愛しい紫上を想い、ますます京が恋しくなられて、涙が溢れ落ちました。

紫式部 源氏物語 須磨(すま)ー第十二帖

朧月夜の尚侍(ないしのかみ)との密会が発覚して、源氏の君は位官剥奪(はくだつ)の身となられました。 右大臣方の攻勢が一層激しくなりましたので、更に深刻なお咎めを受けることになる前に、人里遠く離れた須磨に、自ら退いてしまおうと決心をなさいました。しかし京を離れるには何かと心残りが多く、紫上が「どんな辛い旅でも、ご一緒ならば……」とお泣きになりますので、「これが永遠の別れの旅立ちになるかもしれない……」と、大層悲しく思われました。

紫式部 源氏物語 花散里(はなちるさと)ー第十一帖

五月雨(さみだれ)の空が珍しく晴れた雲間に、源氏の君は久し振りに花散里の御邸をお訪ねになりました。昔、麗景殿(れいけいでん)の女御(にょうご)には、故桐壺帝の華やかなご寵愛こそありませんでしたが、源氏の君は、親しみ深く心惹かれる方……と思っておられました。花散里はその妹君にあたり、以前に少しお逢いになりまして、今も愛しくお想いでございました。

紫式部 源氏物語 賢 木(さかき)ー第十帖

斎宮の御下向の日が近づくにつれ、御息所(みやすどころ)は大層心細くおられました。葵の上が亡くなられた後には、御息所こそ源氏の君のご正室になられると、宮中でも、世間でも期待しておりましたのに、お通いは途絶えてしまいました。わが身が生霊となり葵の上に取り憑いたために、御心が離れてしまった……とお分かりになりましたので、一切の未練を捨てて、斎宮(娘)と共に伊勢に下る決心をなさいました。

紫式部 源氏物語 葵(あおい)ー第九帖

桐壺帝の譲位(じょうい)があり御代(みよ)が変わりました。弘徽殿(こきでん)の春宮(とうぐう)が新しい帝に即位なさいまして、右大臣勢力の世の中になりましたので、源氏の君は万事を辛くお思いでした。高貴なご身分ゆえお忍び歩きも慎まれ、お渡りのない夜をお嘆きの姫君も多くおられました。ご自身はなお、つれない藤壺の宮(継母)の御心を、お嘆きでございます。

紫式部 源氏物語 花宴(はなのえん)ー第八帖

春二月二十日過ぎ、紫宸殿の桜の宴が催されました。中宮や春宮もおいでになり、親王や上達部(かんだちめ)などが、帝から韻字を賜り詩作をなさいました。源氏の君の御作を読み上げる時に、博士などは皆、非常に優れていると褒め讃えました。  舞楽なども大層心尽くしてご準備なさいました。入り日の頃、『春鶯囀』という舞が優雅に舞われますと、紅葉賀の折の美しい舞が思い出せれ、春宮がしきりにご所望なさいますので、源氏の君はゆっくり袖をかえすところを一差しだけ舞われました。

紫式部 源氏物語 紅葉賀(もみじのが)ー第七帖

朱雀院(すざくいん)への行幸(ぎょうこう)は十月十日過ぎに催されます。帝はその美しい舞楽を藤壷の宮がご覧になれないのを物足りなくお思いになり、紅葉散り交じる清涼殿(せいりょうでん)の前庭で、予行演奏をさせなさいました。源氏の君は頭中将(とうのちゅうじょう)と共に清海波(せいがいは)を舞われました。その舞姿はこの世に類の無いほど美しく、帝は思わず感涙をお拭いになりました。 翌朝、源氏の君は藤壺の宮に、御歌をお贈りになりました。

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