源氏の君が亡くなりました後、あの輝きを継ぐ方はおられないようでしたが、世間では、今上帝と中宮(明石姫君)の間にお生まれになりました三宮(匂宮)と、
女三宮の若君(薫)がそれぞれに美しいと評判でございました。
亡き紫上が格別に可愛がりなさいました匂宮は、今も二条院にお住まいになり、帝や后が大切にお世話をなさいました。
元服なさってからは、兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)となられました。
その後、六条院におられた御夫人方は、泣きながら各々の御邸にお移りになりました。
花散里は二条東の院に、入道宮(にゅうどうのみや)(女三宮)は三条宮にお移りになり、今后(明石中宮)は内裏にばかりおられますので、六条院は人少なになり大層寂しくなりました。
右大臣(夕霧)は、「父君が丹精こめて造られた六条院が、世間から忘れられてしまうのは辛いこと。
せめて自分が生きている限りは荒廃させないようにしよう」とお考えになって、丑寅の町にあの一条宮(故柏木の妻)をお移しになり、
雲居雁のいる三条殿とを一晩おきに、お通いになったのでございます。
磨き上げられた二条院も、玉の御殿と評判の六条院の春の御殿も、すべてただお一人の将来のためであったように思われ、明石の御方はご後見をなさりながら、
大勢の宮たちのお世話をしておられました。
大殿(夕霧)は、源氏の君のご意向通りに、どの御方々にもお仕えなさいまして、
「もし紫上が生きておられたら、どんなにか心尽くしてお世話申し上げたであろう……。
私が好意を寄せている事さえお分かりになる折もないまま、お亡くなりになった……」と、尽きせず悲しくお思いになりました。
世の人々は、源氏の君を大層慕い申し上げておりましたので、世の中はまるで火が消えたようになってしまいました。
冷泉院の帝は薫を格別に大切になさいました。十四歳になられ、院の御所で元服の儀式をおさせになり、眩しいほどご立派にお世話なさいました。
けれども薫は子供心にも、ご自分の出生について「母宮(女三宮)は盛りの頃に、どうして出家されたのか……」とお悩みになりましたが、尋ねるべき人もいないので思い沈んでおられました。
その母宮は、今はただ毎日勤行を静かになさいまして、薫が御邸に出入りなさいますのを、頼もしくお思いでございました。
薫のご容貌は特に美しいのではなく、大層気品があり心深い感じがしますが、源氏の君には少しも似ていないようでした。
少し身動ぎなさいますと、その周囲は素晴らしい香りに包まれますので、お忍びで女君のところに立ち寄ろうとしても、はっきりこの君と判るほどですので、面倒に思ってほとんど香をおつけになりません。
不思議なまでに素晴らしい香りを放っている薫に対し、匂宮は大層競争心をお持ちで、薫に負けないようにと、特に優れた香をいつも焚き合わせておられました。
春には梅の花を眺め、秋には、世間が愛する女郎花(おみなえし)や萩の露には心惹かれず、菊や藤袴等 ことさら香りの高い花を好まれますので、人々は風流に心が傾いている……と見ていました。
管弦の遊びの折に、お二人は競いあうように笛を吹き、よきライバルとしてお互いに好意をお持ちでございました。
世間では「匂 兵部卿」「薫 中将」と、呼んで噂をたてておりました。
匂 兵部卿は、冷泉院の女一宮を妻に迎えたいと望んでおられました。
母女御がとても奥ゆかしい方ですので、その姫宮のご様子も素晴らしく、大層慕わしくお思いでした。
けれども薫中将は、世の中を空しいものと思いなして、女性に執着して物思いをすることは遠慮される……と諦めておられました。十九歳で三位の宰相(さいしょう)になられました。
栄華な日々を送りながらも、心の中ではご自分の出生を悲しくお思いで、浮いた好色事はお避けになり、万事に控えめに振る舞っておられました。
正月賭弓(のりゆみ)が催され、宮中には親王方が大勢参上なさいました。
どの方々も気高く美しい中で、匂兵部卿は特に素晴らしく見えました。
賭弓の後、六条院で饗宴が催され、寝殿の南の廂の間にて盃がまわされ、やがて座が華やかになるとともに舞などが舞われました。
庭先の梅が盛りの頃、中将の素晴らしい香りに更に引き立てられて、この上なく優雅な宴となりました。
( 終 )