源氏物語(1) 付現代語訳 (角川ソフィア文庫) [ 玉上 琢弥 ] – 楽天ブックス
いつの間にか年月が重なり、紫上がますます衰弱なさいましたので、源氏の君は先に逝かれるのは耐えがたく、長年の夫婦の縁の別れを大層悲しくお思いになりました。
この頃になると、紫上は「余命少ない……」とお感じになり、
「やはり出家をして、僅かでも命の限り一途に勤行をしたい……」とお願いなさいますのに、源氏の君はお許しになりません。
ご自分でも出家をなさりたいので、ご一緒に出家生活に入ろうかともお思いになりましたが、来世ではひとつの蓮の座を分け合おうとお約束なさりながら、
このように頼りなく病が重くなってゆかれますのがお気の毒で、躊躇っておられるようでした。紫上は悲しくお恨みでございました
花の盛りの三月、長年書かせなさいました「法華経」の供養を二条院で催されました。帝をはじめ春宮、后宮や御方々が、御誦経などを所狭しと寄進なさいまして、
尊い読経に合わせて鼓や笛の音が響き、極楽浄土の有様が想像されるほどに、しみじみと荘厳な法会となりました。
やがて法会も終わり、各々がお帰りになるご様子を、紫上は永遠の別れのように、悲しくご覧になりました。
絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる 世々にと結ぶ中の契りを (紫 上)
(訳)これが最後と思われる法会ですが、頼もしく思われます。
世々にかけてと結んだあなたとの縁を…………
夏になり、ますます弱々しくなられました。
可愛らしい若宮たちとお逢いになっても、「それぞれの御将来を見たいと思っていましたのに、それはもう叶わぬようで……」と涙ぐまれ、誠に美しく臥せておいでになりました。
人目の少ないときに、中宮の三宮(匂宮)を前にお座らせして、
「大人になられたら、ここにお住まいになって、御前の紅梅と桜をご覧になり、私を思い出して下さいましょうか……」とお尋ねなさいました。
すると、こっくり頷いて涙を拭う宮のお姿が大層いじらしいので、優しく微笑みながらも涙を落とされました。
ようやく秋になり、風が涼しく吹く夕暮れに、脇息に寄り掛かって、萩の花をご覧になっていますと、源氏の君がおいでになりました。
おくと見る程ぞ儚きともすれば 風に乱るる萩の上露 (紫 上)
(訳)葉に降りるのも暫くの間 風に吹き乱れる萩の上露のように儚いわが命よ
ややもせば消えを争う露の世に おくれ先立つ程へずもがな (源 氏)
(訳)先を争って消えゆく露のように儚い人の世に、せめて後れも先立ちもせず一緒に消えたいものです ……
「もう気分が悪くなりましたので……」と、御几帳を引き寄せお臥せになりましたご様子が、いつもより頼りなく見えましたので、中宮が手をとって拝しますと、本当に儚く消えゆく露のように……今が最期とみえました。
御誦経の僧たちが大声で読経し、一晩中加持祈祷を尽くしなさいましたが、その甲斐もなく、夜の明ける頃にお亡くなりになりました。
源氏の君は誰よりもお気の鎮めようもなく、大将の君(夕霧)を呼び寄せて、
「今はもうご臨終のようで……、長年望んでいた出家を果たせずに終わってしまうのが可哀想で……。
今はせめて冥途の道案内として、仏の御利益をお頼み申さねばならないゆえ……剃髪するよう取り計らいなさい……」と仰いました。
源氏の君は気強く装っておられましたが、お顔の色も常でなく、ひどい悲しみに耐え難いご様子でした。
ほのぼのと明けゆく弱々しい光の中で、紫上の亡骸はどこまでも可愛らしげに美しくいらっしゃいました。
源氏の君は無理に心をお鎮めになって、ご葬送の指示をなさいました。作法通り、その日の内に厳粛なご葬儀をなさいました。
その後、鳥辺野の野原に人々が集まり、紫上は誠にあっけない煙となって、儚く昇ってしまわれました。人の世の常とはいえ、何とも悲しいお別れでございました。
昇りにし雲居ながらもかへり見よ われ飽きはてぬ常ならぬ世に
(訳)煙になり昇っていった雲居からも振り返って欲しい
私はもう飽き果ててしまいました。この無常の世に……
源氏の君は「紫上に先立たれ何年生きられようか。この悲しみに紛れて出家を遂げたいものだ……」とお思いになりましたが、
世間を憚ってこの時期を過ぎしてから……と、御心を抑えなさいました。
夕霧は、昔、野分の後、樺桜のように美しいお姿を拝したことを思い出し、
いにしへの秋の夕べの恋しきに 今はと見えし明けぐれの夢
(訳)昔お姿を拝した秋の夕暮が恋しいのに、臨終のお姿は夢のような気がする
致仕の大臣は「葵が亡くなりましたのも、ちょうどこの頃だった」と思い出されて、
いにしへの秋さへ今の心地して 濡れにし袖に露ぞおきそふ
(訳)昔の秋さえ今のような気がして、涙に濡れた袖にまた涙を落としています
源氏の君は御仏の御前に人をお呼びになって、心静かにお勤めなさいました。
「千年もご一緒に……と思っていたが、限りある別れが、大層口惜しいことであった。今は、蓮の露の願いが紛らわされることなく、
来世を願う気持に揺るぎはない……」と、阿弥陀仏を念じてお祈りなさいました。
ご法要の事もはっきりお決めになることもなく、大将の君が万事をなさいました。
ご自分でも今が最期と覚悟されたようでございました。
月日がはかなく過ぎてゆきました。
( 終 )