新しい年を迎え、人々が年賀に訪れなさいますのに、源氏の君は涙の乾く暇もなく、御簾の中にばかりおられまして、どなたにもお会いになりません。
麗らかな春の光をご覧になるにつけても、
わが宿は花もてはやす人もなし 何にか春のたづね来つらむ
(訳)私の家には花を喜ぶ人もいないのに、どうして春が訪ねて来たのでしょう
兵部卿宮がおいでになりました。
紅梅の下を歩くお姿が優しく見えますので、今はこの方の他に、僅かに咲きかけた花を愛でる人もいない……と悲しくご覧になりました。
ご夫人方のところでさえ、所在ない折にお顔を出されることがありましたが、ただ涙ばかりがこぼれ落ちますので、ご無沙汰してお過ごしになりました。
仏道のお心が深くなるにつけても、昔のことが思い出されて、
「一時の戯れであるにせよ、どうして愛する人を苦しめるような事をしたのだろう……。
女三宮がご降嫁された折に、紫上は悲しみをお顔にはお出しにならず、思い沈んでおられたのが、今となれば何ともお労しい……。
そしてあの雪の朝も、女三宮のところから戻ると、優しく迎える陰で、泣き濡れたお袖を隠しておられた……」等と、何もかもが大層悔やまれ、胸が苦しくなられました。
憂き世には雪消えなむと思いつつ 思ひの他になほぞほどふる
(訳)辛いこの世から雪のように消えてしまいたいと思いながら
心ならずも まだ日々暮らしているとは……
中将の君などの女房たちも、墨染の喪服を着て、今もお仕え申し上げていましたが、
「私が出世したら、この女房たちも嘆き悲しむことだろう。
今を限りに別れ別れになってしまうのか……」と、思わず涙がこぼれるのでした。
后の宮(明石の御方)は、三の宮(匂宮)を寂しさのお慰めとして、源氏の君のもとに残して、内裏にお戻りになりました。
幼い三の宮が、「お祖母様が仰いましたから……」と、御前の紅梅を大切にお世話なさいますので、源氏の君はそのお姿を愛しくご覧になりました。
二月になり霞がかる頃、その紫上形見の紅梅の蕾も膨らみ、鶯がきて鳴きますので、廂に立ち出てご覧になり、またお袖を濡らしなさいました。
植ゑて見し花のあるじもなき宿に 知らず顔にて来ゐる鴬
(訳)植えて眺めた花の主人もいない この邸に、知らぬ顔をして来て鳴いている鶯よ……
やがて桜の花が咲き、藤が少し遅れて色づく前庭で、若宮は、
「私の桜が咲きました。何とかいつまでも散らないように、木の周りに帳を造れば、風も当たらないのに……」と可愛らしい思いつきを仰いますので、源氏の君はふと微笑まれました。
この宮だけを遊び相手として、心慰めてお過ごしになりました。
春が深まるにつれ、御前の花々が紫上がおられた昔と同じく、美しく咲き匂うのをご覧になりましても、御心は寂しく、俗世を離れた山寺が一層恋しくなってゆかれました。
今はとて荒らしや果てむ亡き人の 心とどめし春の垣根を
(訳)今、出家するとなると、すっかり荒れ果ててしまうのだろうか
亡き人が心をこめて手入れなさった春のお庭も……
所在ないので、入道の宮(女三宮)のところにおいでになりました。
宮は仏の御前で、経を読んでおられましたが、何ほど深くお悟りになった様子もなく、仏道一筋に俗世を離れて穏やかにお暮らしですので、源氏の君には誠に羨ましく、
「このような思慮深くもない女にさえ、遅れをとったか……」と残念に思われました。
宮が何気なく仰った言葉さえも不愉快にお思いになり、紫上はどんな時にも心遣いが行き届いていた……と、奥ゆかしい人柄が偲ばれて、また涙を落とされました。
夕霞が立ちこめる頃、明石の御方にお渡りになりました。久しくお渡りになりませんでしたが、大層優雅なご様子に「やはり他の方より優れている」とご覧になりました。
「けれども紫上はより一層……」と、愛しい面影が浮かんできて、
「春が悲しく思われます。幼い頃からご様子を拝見してきましたので、ご臨終の悲しみはまた格別に辛く思われます。
長年連れ添った人に先立たれ、出家もせずに、何と虚しく過ごしてきたことか……」等と、夜が更けるまで、ただ物語などをして、何事もなくお帰りになりました。
翌朝、御文をお書きになり……、
泣くなくも帰りにしかなかりの世は いづくもつひの常世ならぬに
(訳)泣く泣く帰りました。この仮の世は どこも永遠の住みかではないので……
明石の上は、夕べのご退室を恨めしくお思いになりましたが、
院が萎れておられた御姿が大層お気の毒なので、涙ぐまれました。
晩年このお二人は、互いに心を交わし合い、信頼できる仲となられることでしょう。
五月雨の夜、大将(夕霧)がおいでになりました。
物寂しいところに、雲間から月が明るくさし出し、花橘の優しい香りが漂ってきます。
ほととぎす 君につてなむふるさとの 花橘は今ぞ盛りと
(訳)時鳥よ亡き人に伝えてほしい 古里の橘の花は今が盛りですよと……
寂しい独り寝がお労(いたわ)しいので、
大将は時折泊まられましたが、紫上が生きておられた当時は、御簾に近づくことも許されなかった事を思い出し、感慨深くおられました。
紫上の一周忌が迫り、御法事の準備で悲しいお気持も紛れるようでしたが、
「今までなんと空しい日々を生きて来たことよ……」と呆れる思いでおられました。
御命日には上下の人々が皆集まり、曼荼羅などをご供養なさいました。
源氏の君はついに出家を決心なさいました。然るべき事柄を整理すべく、長く仕えてくれた女房たちに形見分けをなさいましたので、女房達は「遂にご出家か……」と拝見するにつけても、悲しみの尽きないことでございました。
紫上からのお手紙は特別にひとつに結んで、大切に残しておられましたが、亡くなった人の筆跡を見ると胸が痛くなり、涙が溢れますので、
心を込めて書かれた言葉のすぐ横に、「紫上と同じように、儚(はかな)い煙となって昇りなさい……」と書き添えて、その全てを焼かせなさいました。
十二月、例年のとおり催された法会で、源氏の君は久しぶりに人前にお出ましなさいました。昔の御威光に増して、また一層素晴らしく見えますので、老齢の僧たちは涙を抑えられませんでした。
もの思うと 過ぐる月日も知らぬ間に 年もわが世も今日や尽きぬる
(訳)物思いして過ごした月日も知らぬ間に わが命も今日尽きてしまった……
( 終 )