紫式部 源氏物語 桐壺(きりつぼ)ー第一帖

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『源氏物語』完結記念 限定箱入り 全三巻セット [ 角田 光代 ] - 楽天ブックス
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いつの御代(みよ)のことでしょうか。宮中には女御(にょうご)や更衣(こうい)などが大勢お仕えしておりました。

その中に高い身分の方ではありませんが、桐壺帝のご寵愛を一身に受ける美しい姫君(更衣)がおりました。

父の大納言は既に亡くなられ、母は古い家柄の方でしたので、頼りとする後見人もなく、大層心細くおいでになりました。

我こそは帝の御后に……と思い上がった女御たちは、この更衣のことを憎み嫉んでは、悪戯をしていじめておりました。

更衣は深く思い悩んで、ご病気がちになられましたので、帝は一層可愛がりなさいました。

前世でも深い御宿縁だったのでしょう。やがて輝くばかり美しい男の御子がお生まれになりました。

第一皇子は弘徽殿(こきでん)の女御がお産みになりました御子で、御後見も大層厚く、疑いもなく東宮になられる方として、大切に養育されておりました。

この更衣の御子は他に並ぶ者もないほど愛らしく、桐壺帝は思いのままに可愛がりなさいました。

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管弦の遊びや然るべき行事の折には、まず更衣をお呼びになり、御前から離さずに、
伺候させておいでになりました。

この皇子がお生まれになってからは、帝にお考えがあるようですので、第一皇子の母・弘徽殿の女御は「もしや、この皇子が東宮になられるのでは……」と不安になられ、大層恨みに思っておられました。

この御子が三歳になられまして、第一皇子に劣らず盛大な御袴着(成人式)が催されました。

その年の夏、更衣のご病気はさらに悪くなられ、すっかり衰弱なさいました。帝は、眩いほど美しかった人が面窶(おもやつ)れして苦しそうなご様子に、

「まさか……私をひとり残して逝くことはないでしょうね……」とお泣きになりましたが、治癒祈祷のため里家にお帰りになりましたその夜、儚くお亡くなりになりました。

厳かにご葬儀が執り行われましたが、帝の御心は大層乱れて、それからというもの、お部屋に閉じ籠もってしまわれました。

儚(はかな)く月日が過ぎて行きました。帝はお食事も召し上がらず、政治をお執りになるのも怠りがちになられ、御方々の夜の伺候も途絶えて、ただ涙に濡れてお過ごしになりました。

お側に仕える者達は皆、このお労しいご様子を大層嘆いておりました。

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第一皇子のご様子をご覧になるにつけても、若宮(更衣の御子)への恋しさが募るばかりで、更衣の実家に遣いをお出しになり、若宮を参内させなさいました。

この若宮を亡き更衣の形見として、大層可愛がり「母のない御子なので、可愛がってやってください……」と、女御のところにも連れておいでになりました。

御簾の内にまでお入れになりますと、微笑みたくなるほど愛らしいご様子なので、御方々も遊び相手のようにお思いになりました。

明年の春、東宮をお決めになる時に、第一皇子を超えさせようとお考えになりましたが、後見人もなく危険だからと諦めなさいましたので、弘徽殿の女御の御心も落ち着いたようでございました。

その頃、世間では大層評判の高い高麗人(こまうど)の人相見(にんそうみ)がおりました。

「この御子は帝になるはずの人ですが、そうなれば国が乱れることになるでしょう」と予言致しました。

帝は「この若宮が親王(王位継承者)になれば、すでに第一皇太子がいるのだから、大変危険な事になるに違いない。

源氏という臣下(ただ人)の姓にして、一番低い位のままにしておこう……」とお考えになり、将来が頼もしげであるように、学問を習わせようとお決めになりました。

月日が過ぎても、帝は亡き更衣をお忘れになることはありませんでしたが、先帝の姫君が、更衣に大層よく似ておられましたので、お心の慰めにと入内(じゅだい)を申し入れなさいました。

藤壷というこの姫君は大層美しく、不思議なほど似ておられましたので、自然に帝の御心がこの藤壷に移って癒されていきますのも感慨深いことでございました。

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源氏の君は十二歳になられ、御元服の儀式が執り行われました。

紫宸殿で行われた東宮の御元服に引け劣らず、善美の限りを尽くして催されました。

清涼殿の御前に、若君と加冠役の左大臣のお席が設えられ、角髪に結ってあるつややかな童髪を削ぐ時には「亡き母が見たなら……」と、帝はまた悲しく涙を落とされました。

加冠の儀をお済ませになりましたその夜、源氏の君は左大臣の姫宮・葵を添臥(そいぶし)として迎え、ご結婚なさいました。

けれども源氏の君はこの可愛らしい姫君にはなぜか心惹かれず、ただ母の面影に似た藤壷を慕い続けておられました。

元服をなさって後は、今までのように藤壷の御簾の中に入ることは許されません。

管弦の遊びの折には、藤壺の弾く琴の音に源氏の君は笛を吹かれ、心の慰めとしておられました。

左大臣邸の葵の上のところには絶え絶えにお渡りになりましたが、左大臣は「まだお若いので罪もない……」とお許しになって、娘婿として大切にお世話なさいました。

その後、更衣の里家を素晴らしく改築なさいました。趣き深い木立や築山に見事な池などを造り、落ち着いた佇まいとなりました。

源氏の君は愛しい藤壺を想い、「このような所で愛する人と穏やかに暮らしたい……」とお思いになりました。

光君(ひかるぎみ)という名は、高麗人がお褒めして名付けたと、言い伝えられているようです。

( 終 )

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