すらすら読める源氏物語(上) (講談社文庫) [ 瀬戸内 寂聴 ] – 楽天ブックス
春二月二十日過ぎ、紫宸殿の桜の宴が催されました。
中宮や春宮もおいでになり、親王や上達部(かんだちめ)などが、帝から韻字を賜り詩作をなさいました。
源氏の君の御作を読み上げる時に、博士などは皆、非常に優れていると褒め讃えました。
舞楽なども大層心尽くしてご準備なさいました。入り日の頃、『春鶯囀』という舞が優雅に舞われますと、紅葉賀の折の美しい舞が思い出せれ、
春宮がしきりにご所望なさいますので、源氏の君はゆっくり袖をかえすところを一差しだけ舞われました。
中宮はその美しい舞姿に目を留め、おほかたに花の姿を見ましかば つゆも心のおかれましやは
(訳)ただ普通に花のように美しいお姿を拝するのなら
少しの心の憂いもいらなかったでしょうに……
夜更けて宴は果て、后や春宮(とうぐう)も帰られまして、辺りは静かになりました。
清涼殿の人々も皆寝入ったのを幸いに、源氏の君は「こんな時にこそ、あの方に逢えるかも……」と、藤壷の辺りを忍び歩かれました。けれども戸口はすべて閉ざされておりました。
そこで弘徽殿の細殿に行かれますと、何と戸口が開いています。
ほろ酔い気分の源氏の君はそっと中にお入りになりました。
その時、「朧月夜に 似るものぞなき……」と歌いながら、美しい姫君がこちらにやって来るではありませんか。
源氏の君は嬉しさのあまり、そのお袖を捉えて姫君を抱き下ろし、細殿の戸を閉じてしまいました。
その怯える様子が大層愛らしくすっかり心惹かれなさいました。
やがて夜が明けてきましたので、お別れ際に名前をお尋ねになりましたが、姫君はお答えになりません。
憂き身世にやがて消えなば尋ねても 草の原をば問はじとや思ふ
(訳)辛い身のまま名前を明かさないでこの世から消えてしまったなら
草の原まで尋ねては下さらないと思えます……
仕方もなく、この夜の証にお互いの扇を取り替えて、細殿をお出になりました。
源氏の君はお部屋に戻られましたが、寝入ることができません。
「しかし美しい姫君だった……弘徽殿の女御の妹君に違いない。六の君は春宮に入内なさると聞いていたが、もしその方なら気の毒なことをした……。
何とか便りを交わす方法はないものか……」等と、思い巡らしておられました。
翌日、家来に探らせましたが、あの姫君が誰かも判からずに大層心残りでした。
三月(やよい)二十日すぎ、右大臣邸で弓の結があり、その後、藤の花の宴が催されました。源氏の君は夕闇に紛れて席をお立ちになり、寝殿にお入りになりますと、姫君たちが藤の花を見物しておいでになりました。
「あの姫君はどの方だろうか……」と胸をときめかし、一人の姫君の手をとって問いかけますと、お答えなさるその声がまさしくあの朧月夜の姫君……
( 終 )