源氏物語(全9冊美装ケースセット) (岩波文庫) [ 柳井 滋 ] – 楽天ブックス
光源氏というと、名前はご立派で、非難されるような好色な行いが多いように思われがちですが、実際はずっと真面目なご性格でした。
後世に軽薄な浮き名を流されないように気遣っておられましたのに、内密にしていた事でさえ今も伝わっているのは、世間が口やかましいからなのでしょう。
源氏の君がまだ中将でおられる頃には、内裏(だいり)によく伺候されましたので、左大臣の御邸には、時々しかおいでになりませんでした。
浮気でもしているのかと疑われることもありましたが、源氏の君は、そのような好色なことはお好きではありません。
稀に、風変わりな恋に心を窶して、思い悩む癖がおありのようでした。
長雨の頃、内裏には御物忌が続きましたので、源氏の君は内裏にずっと伺候なさっておられました。
葵の上のところにお渡りになることもなく、左大臣は恨めしくお思いでしたが、新装束などを届けさせなさいまして、娘婿を大切にお世話しておられました。
左大臣のご子息の中でも、頭中将(とうのちゅうじょう)は、特に源氏の君と親しくなさいました。
右大臣の姫君と結婚していますのに、やはり右大臣家に行くことを好まずに、戯れの色事を好んでなさいました。
所在なく雨が降り続いた夜、殿上は人少なで、御宿直所でものんびりした心地がしていました。
源氏の君が灯火を近づけて、書物などご覧になっていますと、頭中将が近くの御厨子(書棚)にある女性からの手紙を見たがりますので「差し支えのない物だけ……」と仰って、
あれこれご覧になるうちに、やがて話題は女性のことになりました。
頭中将は、
「完璧ないい女と言えるのは少ないと思い知りました。
女は沢山いるけれど、上流階級より、むしろ中流にこそ心惹かれる女がいるものだ……」等と話していますところに、左馬頭(ひだりのうまのかみ)と 藤式部丞(ふじのしきぶのじょう) が加わりました。
女性について議論し合う四人の声で、雨音もかき消されるほどでした。
左馬頭は、「私共が一番心惹かれるのは、世間からあまり知られていないような家に、思いがけなく優美で気品のある美しい女がいる。
音楽の才能もあり、字が上手な女、そんな女性を見付けた時こそ心弾むものです……」などと申しました。
源氏の君は退屈な素振りを見せながらも、ひどくこの話に惹きつけられて、何とか中流の女性に出逢いたいものだとお思いになりました。
白い柔らかいお召物に直衣だけを紐も結ばずにお召しになって 寛(くつろ)いでおられるお姿は、大層素晴らしく見えました。
頭中将が、忍んで通った美しい女の話を始めました。
「その女は親もなく心細い様子で、とても頼りに思っているようでした。
幼い子も生まれましたが、妻が何か辛いことをしたようで、悲観して撫子(なでしこ)の花を送ってきました。
山がつの垣ほ荒るとも折々に あはれはかけよ撫子の露
(訳)山家の垣根は荒れても、時々は可愛がってください撫子(幼子)を……
私は辛いことがあったとも知らずに逢いに行きましたが、特に恨んでいるようにも見えませんでしたので、気楽に構えて通わずにいたところ、姿を隠してしまいました。
何とか探したいのですが、今はその行方も分かりません」等とお話しなさいました。
皆、体験した嫉妬深い女や浮気女の話などして、退屈な雨の夜を明かしなさいました。
長く降り続いた雨もすっかり晴れ上がりましたので、源氏の君は左大臣の御邸に参りました。
しかし妻・葵の上は、気高く取り澄まして打ち解けなさいません。
夕暮れ、「今夜はここに泊まるには方角が悪いので、よそに方違(かたたが)えを……」と申します。
仕方なく、中川の辺りにある紀伊の守の家に泊まることになりました。源氏の君は、
「これこそ中流の家庭だ。どんな女がいるだろうか……」と胸が高鳴りました。
紀伊の守の邸には、遣り水が趣き深く造ってあり、前栽(庭の植え込み)が美しく、蛍が飛び交っていました。
夜、辺りはすっかり静かになり、遣り水の音だけが聞こえてきます。けれども源氏の君は寝付くことができません。
すると襖障子の向こうから女の声がかすかに聞こえてきました。胸ときめいた源氏の君が、そっとその部屋に忍び込みますと、とても小柄な感じの女が一人臥せっていました。
柔らかい着物の袖が女の顔に被さって、女は声も出せません。
取り乱した様子が誠に可憐なので、思わず抱き上げて、奥の御座所にお入りになりました。
「一時の戯れとお思いになるでしょうけれど、決していい加減な気持からではありません。長年、恋い慕っておりました……」と、とても優しく仰いました。
女は「わが身分が低いと軽蔑なさって、こんなお振る舞いをなさるのでしょうけれど、私は紀伊の守の妻でございます。
人妻としての御扱いをなさいますように……」
その女は上品で誠になよやかで、言うべき事は筋を通しています。
そのゆかしさに、源氏の君はすっかり心惹かれてしまいました。
「思いがけない逢瀬こそ、前世からの深い因縁だとお思い下さい……」と心深く慰めなさいまして、行く末を契りなさいました。
やがて鶏が鳴き、供人が起き出してお帰りの支度を始めました。
源氏の君はこのような機会が再びあろうとは思えず、お手紙を交わすことも無理かと思うと、ひどく胸が痛みました。
その女の慕わしさに思わずお泣きになる様子は、とても優美でございました。
女は自分の運命を思い、誠に不似合いで眩しい気持がしていました。
有明の月が仄かで趣きのある頃、源氏の君は後ろ髪を引かれる思いで御邸を出られました。
二条院にお帰りになりましても、今一度逢いたいと恋しく想い続けておられました。
そこで伊予の守をお呼びになり「先日、邸で見かけた故中納言の子を、私の身近に仕える童として下さらないか……」と仰いました。
五、六日が過ぎて、その子が二条院に連れてこられました。身近に呼んでとても可愛がりなさいますついでに、姉(あの人妻)のことを詳しくお尋ねになりました。
子供心にとても嬉しく思い、源氏の君からのお手紙を姉に持ち帰りました。そこには美しい筆跡で歌が書かれていました。
見し夢を逢ふ夜ありやと嘆くまに 目さへあはでぞころも経にける
(訳)夢のような夜以来 また逢える夜があるかと眠れぬ夜が過ぎていきます……
女は涙が溢れ、自分の不本意な運命を思い、臥せってしまいました。お手紙はいつもありましたけれど、心許したお返事はしませんでした。
源氏の君は人妻をお忘れになる時もなく、突然、紀伊の守の御邸においでになりました。
けれども女は、渡殿の隠れ処に身を隠してしまいました。
源氏の君はとても辛くお思いになって、帚木(ははきぎ)の心を知らで園原の 道にあやなく惑ひぬるかな
(訳)近づけば消えるという帚木のような貴女の心も知らないで、園原への道に空しく迷ってしまいました。
その人妻からの返歌には、数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さに あるにもあらず消ゆる帚木
(訳)とるに足りない見窄(みすぼ)らしい家に生きる私は辛いので、見えても触れられない帚木のように、貴方の前から姿を消すのです……
( 終 )