源氏物語 (五) 梅枝ー若菜 下 [ 柳井 滋 ] – 楽天ブックス
藤壷入道の宮はご病気がちになられましたので、幼い冷泉帝のお世話役として、少し年上の前斎宮(故御息所の娘)が入内されることを、熱心に勧めておられました。
しかしこの前斎宮に好意をよせておいでの朱雀院は、誠に残念に思われ、
別れ路に添へし小櫛をかことにて 遥けき仲と神やいさめし (朱雀院)
(訳)別れの御櫛を差し上げたことを口実に、
貴女とは遠く離れた仲と、神がお決めになったのでしょうか
別るとて 遙かに言いしひとことも 帰りてものは今ぞ悲しき (斎 宮)
(訳)別れの御櫛をいただいた時に仰せられた一言が
帰京した今となっては、悲しく思われます……
院はこれをご覧になって、しみじみ悲しくなられました。かつて源氏の君が須磨に退去するという命を下したその報いを、今お受けになったということなのでしょう。
夜が大層更けてから、前斎宮は帝に入内なさいました。
夜の御殿にて大層慎ましく、小柄で愛らしいお姿に、帝は「何と可愛らしい……」とお思いになりました。
帝のお側には、既に弘徽殿(こきでん)の女御(にょうご)(権中納言(ごんちゅうなごん)の娘)が入内していましたが、
帝は大層絵がお好きですので、絵の上手な前斎宮をご寵愛なさいました。
権中納言(もと頭中将)は、将来わが娘こそ冷泉帝の中宮にしようと、先に入内させましたのに、今、前斎宮が梅壺に入られ、
この二人が競い合って帝にお仕えするようになったことを、不安にお思いでございました。
三月の初め、内裏の行事のない時期に、女房達は絵を集めて競う合う事に夢中でした。
源氏の君は「同じ事なら、帝の御前で競い合わせよう……」と思い立ち、二条城に戻り、いつの日か、藤壷中宮だけにはお目にかけたいと思っていた須磨の絵日記を、梅壺へ届けさせなさいました。
一方、権中納言はどこまでも負けず嫌いのご性格なので、優れた画家達を家に抱えて、厳しく口出し等して見事な絵を描かせ、弘徽殿に持たせました。
絵合せの日、帝のお召しがあり、源氏の君と権中納言が参上なさいました。
左方(梅壺)と右方(弘徽殿)の二つに分けて、双方から数々の絵が帝の御前に出されました。
左方は紫檀の箱を蘇芳の花足の台に載せ、敷物は紫地の唐の錦、打敷は葡萄(えび)染の唐の薄絹を用い、六人の女童が赤色に櫻襲(さくらがさね)の汗杉(かざみ)を着て
袙(あこめ)は紅に藤襲(ふじがさね)の織物で、大層美しい設えでした。
右方は沈(香木)の箱を浅香の台に載せ、打敷は青地の高麗の錦、組み紐や花足の趣味も華やかに、女童は青色に柳の汗杉、袙は山吹の襲(かさね)を着て、姿や振る舞いなど特に優れて見えました。
藤壷中宮もおいでになり、所々に判定の揺らいで心もとない折には、中宮にご意見をお伺いするのも、源氏の君にとっては人知れず嬉しい事でございました。
「竹取物語」と「うつぼ物語」では左方が負け、「伊勢物語」と「正三位物語」ではその議論がただやかましく勝負がつきません。勝負の定まらないまま、夜になりました。
最後に「須磨の巻」が梅壺方から出されました。源氏の君が須磨で過ごされた日々がどんなに辛く悲しかっただろうか……と皆が感涙を流し、
君が心の限りを尽くして描かれた須磨の風景画に心打たれておりました。 結局、みな譲って、この絵を出した左方(梅壺の女御)の勝ちとなりました。
明け方近くになり、源氏の君はお杯を酌み交わされました。師(そち)の宮が、
「故桐壺院が特に熱心に源氏の君にご教授あそばした甲斐があって、
文才は言うまでもなく、諸芸にもご立派で……」と仰いますと、皆は故院を思い出し、うち萎れてしまわれました。
やがて二十日過ぎの月が差し出て、空が美しい頃になりました。
書司にある和琴が召し寄せられ、中納言が和琴を、源氏の君は琴をお弾きになり、琵琶を少将の命婦に弾かせなさいました。
殿上人の中から楽の優れた者をお召しになって、心ゆくまで合奏なさいました。
次第に夜が明けてきますと、花の色も人の姿もほのかに見えてきて、言葉に表せないほど美しい朝ぼらけでございました。
帝は「新らしく宮中の儀式の中に、この御代から始まった行事として、末の人々が言い伝えるような素晴らしいものを加えよう……」とお考えになりした。
「絵合せ」という単なる遊びも、特に優れた人達に催させれば、素晴らしい御清栄の御代と伝えられる事でございましょう。 ( 終 )