源氏物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫) [ 紫式部 ] – 楽天ブックス
桐壺帝の譲位(じょうい)があり御代(みよ)が変わりました。
弘徽殿(こきでん)の春宮(とうぐう)が新しい帝に即位なさいまして、右大臣勢力の世の中になりましたので、源氏の君は万事を辛くお思いでした。
高貴なご身分ゆえお忍び歩きも慎まれ、お渡りのない夜をお嘆きの姫君も多くおられました。
ご自身はなお、つれない藤壺の宮(継母)の御心を、お嘆きでございます。
藤壺の宮は以前にも増して、桐壺院のお側に伺候しておられました。
院は折々につけて、管弦の遊びなど催しなさり、今までよりずっと優雅にお過ごしでしたが、ただ春宮のことがご心配で、
源氏の君にそのご後見を頼みなさいますので、君は気が咎める一方で、内心、大層嬉しくお思いでございました。
けれどもその真実に気付く者は誰もいないようでした。
ご譲位に伴い、六条御息所(みやすどころ)を母とする前坊(前皇太子)の姫君が、新しい伊勢の斎宮に決まりました。
御息所は、源氏の君の愛情が頼りにならない上に、幼い姫君のご様子が心配なことを理由に、一緒に伊勢に下ろうかとお考えになりました。
桐壺院はこの噂をお聞きになり、「亡き皇太子(光源氏の兄)がご寵愛なさった方を、疎かに扱うのは良くない……」とご機嫌が悪いご様子で
、源氏の君は恐縮して控えておられましたが、御息所も不似合いな年令差(七歳年上)を恥ずかしくお思いになり、打ち解けようとなさいませんので、
なお一層、御息所へのお通いも遠のいてしまいました。
源氏の君が幼い頃から想いを寄せる朝顔の姫君でさえも、この噂をお聞きになって
「君の冷たさを知り、私は何としても二の舞は演じるまい……」とお決めになりました。
賀茂の祭は今年も格別盛大に催されました。
前日に行われる斎宮の御禊(みそぎ)の儀式には、上達部(かんだちめ)など特に優れた方々が、そのご衣装や、馬・鞍など見事に整えて行列に参加なさいました。
初夏の空は晴れ渡り、一条大路は祭見物をする人々で隙間なく埋まりました。
普段、外出なさらない葵の上も、女房たちに勧められ、源氏の君の行列を見ようとお出かけになりましたが、大路は大変な混雑で、御車を停める場所さえありません。
若い家来達は酒の勢いから所争いとなり、傍らにある質素な網代車(あじろぐるま)を奥に押し退けて、前に御車を立ち並べてしまいました。
その網代車には大層忍んで、六条御息所が乗っておられたのでございます。
榻などもへし折られて体裁が悪く、御息所が大層恨みに思っておられます時、源氏の君の行列が前を通りました。
一段と光輝くお姿に、正妻・葵の上に圧倒されたご自分の立場を、この上なく悔しく惨めにお思いになりました。
影をのみ 御手洗川のつれなきに 身の憂きほどぞいとど知らるる
(訳)影をのみ映して流れる御手洗川(源氏の君)のつれなさに、
わが身の儚さが思い知らされました。
源氏の君はその所争いについて、後でお聞きになり「葵の上は何事にも情愛に欠ける所がおありで、御息所がどんなに辛い思いをされたことか……」と
お気の毒になられ、お見舞いをなさいましたが、斎宮の神事を口実に、御息所はお逢いになりませんでした。
あの日以来、左大臣邸では、葵の上がひどく物の怪を患われ、大層お嘆きでございました。
更に初めてのご懐妊と分かりとてもお苦しみになりますので、御修法の限りを尽くして祈祷させなさいました。
時には胸を咳あげて、耐えられないほどに苦しまれますので、人々は不吉に思いながら皆、悲しくおられました。
院からも数々のお見舞いがありました。御息所は大層不愉快にそれをお聞きになり、さらに憎しみを深くなさいました。
葵の上に張り合うお気持に怨念が生まれたことを、気付く人はありませんでした。
御息所もその所争い以来、大層心乱れなさいまして、魂が浮いたように感じられて、お具合が悪くなられました。葵の上が自分を無視し蔑(ないがし)ろにしたため、御心が憎しみに
変わり、物怪(もののけ)となって葵の上に取り憑いたのでございます。最近、無意識で魂が身体を離れては、葵の上を突き回し、荒々しく掻きむしる光景を、繰り返し夢の中に見るようになりました。
源氏の君には、葵の上がめでたくご懐妊なさいましたのに、物の怪にひどくお苦しみですので、心痛いほどご心配なさり、加持祈祷などを心尽くしてさせなさいました。
ある日、まだご出産の時期ではないと、皆が油断をしていましたところ、葵の上は急に産気づかれてお苦しみになり、
「ご祈祷を少し緩めて下さい。源氏の君に申し上げたいことがあります……」と仰いました。御遺言しておきたいことでもあるのかと、左大臣も大宮もお下がりになり、加持の読経の声を低くいたしました。
源氏の君が御几帳の帷子(かたびら)を引き上げて、御寝所にお入りになりますと、葵の上は大層愛らしげで、臨月のお腹はふくれていますが、心乱れるほどに美しく伏せておいでになりました。源氏の君は手をとり、なお一層深い愛情が感じられてお泣きになりました。
嘆きわび 空に乱るるわが魂を結びとどめよ 下がひのつま
(訳)嘆き悲しみ空に乱れた私の魂を結び止めて下さい。着物の下前のつまを結んで…
歌を詠む葵の上の声が、何と御息所のそれに代わっていました。源氏の君は今、まざまざと生霊をご覧になり、大層驚ろかれ、誠に耐え難くお思いになりました。
やがて物の怪についた声も静まりましたので、母宮が御薬湯を飲ませようと身体を起こしますと間もなく、葵の上は男御子(みこ)を出産なさいました。
皆は大層お喜びなさいまして、生養(うぶやしない)(産後の祝宴)は格別に賑やかに行われました。
若君のお目元は愛らしく、春宮に大変よく似ていらっしゃいました。
一方、あの御息所は「以前には重篤と聞きましたのに、ご安産だったとは……」と、心穏やかにはいられません。不思議なことに魂がご自分を離れた後、正気に戻りますと、御衣(おぞ)に芥子の香(魔除けの祈祷で炊く香)が染みついていますので、何故か気味が悪く、ますます心が乱れていきました。
秋の司召(つかさめし)(任命式)の日、源氏の君は久し振りに参内なさいました。御邸がひっそりして人少なの時、葵の上は急に胸を咳き上げてお苦しみになり、内裏にお知らせする間もなく、誠にあっけなく亡くなられました。
物の怪が憑いていたこともあって、枕などもそのままに、二、三日様子を見ながら、祈祷の限りを尽くされましたがその甲斐もなく、鳥辺野(火葬場)にお送りする時には、悲嘆の極みにございました。誠に儚いご遺骨になられて、ご葬儀が終わりました。
上(のぼ)りぬる煙はそれとわかねども なべて雲居のあはれなるかな
(訳)空に上った妻の煙はそれと分かりませんが、どの雲もしみじみ
と悲しく思います……
父・左大臣の悲しみは大きく「余命幾ばくもない老いの末に、愛する娘に先立たれては……」と、涙を拭く御袖を顔から離す事も出来ずに、悲しみに耐えるご様子は胸に詰まるものでした。母宮は起き上がることもできず、御命さえも危うそうにみえました。時雨の中、左大臣邸を退出なさる時には、皆、悲しみにくれておりました。
源氏の君は心狂わんばかりで、夜、御帳台の中に独りでお寝すみになりましても寝覚めがちですので、暁方まで僧を呼んで、読経をさせなさいました。
暫くして、御息所からお見舞いがありました。源氏の君はそのお返事として、
とまる身も消えしもおなじ露の世に 心置くらむほどぞはかなき
(訳)生き残った者も死んだ者も、同じ露のようにはかない世に
心の恨みを残して置くことはつまらぬことですよ……
御息所は「やはり源氏の君はお気づきであったか……」とお分かりなり、
「年甲斐もなく物思いをして魂がさまよい、葵の上に取り憑くとは……。遂には悪い評判を残すことになるのか……」とお悩みになりました。
源氏の君は草枯れの庭に咲いている撫子(なでしこ)を折らせて、母宮にお届けなさいました。
草枯れのまがきに残る撫子を 別れし秋の形見とぞ見る
(訳)草の枯れた垣根に咲き残る撫子の花を、秋に死別れた妻の形見と思います
喪があけまして、源氏の君は二条院に戻られました。喪服を脱ぎ直衣装束に着替えて、若紫の姫君がいる西の対にお渡りになりました。
御几帳の向こうに姫君が座っておいでになりました。恥ずかしそうに微笑まれたご様子は誠に愛らしく、あの藤壷中宮に違うところなく美しくなられ、もうご結婚に相応しいお年頃のようです。
源氏の君は葵の上を亡くされた寂しさにまかせて、ずっとご一緒にお過ごしになりました。姫君は大層愛敬があり魅力的でとても愛くるしい心をお見せになりますので、もう我慢できなくなられて……、
あくる朝、君は早くに起きられ、姫君はお起きになりません。枕元に引き結んだ御文がありました。
あやなくも隔てけるかな夜をかさね さすがに馴れし夜の衣を
(訳)どうして契りのない夜を重ねてきたのだろう
いつも慣れた衣を掛けて寝んだのに……
姫君は「このような嫌な御心を、なぜ今まで頼もしく思ってきたのだろう……」と、御衣を被って臥しておいでになりました。君がその御衣を引き剥がしますと、姫君は額髪が濡れるほど汗をかいています。
「これは……よしよし、もう致しません……」と一日中お慰めしましたが、いつまでもすねておられるご様子が、ますます可愛らしくいらっしゃいました。
翌日の夜、亥の子餅(子孫繁栄を願う儀式)をなさいました。それからというもの、源氏の君は、内裏や院に参上している時でさえも、若紫の面影が恋しく、一夜も新手枕を離れていられない……とお思いになりました。
正月、源氏の君は左大臣家を訪れ、葵の上のおられた頃の慣わしどおり、母宮が丹精こめてお誂えになりました新装束にお召し替えなさいました。
「悲しみの私にさえ春がくるのかと、悲しく思い出されることが多くありまして……
あまた年今日改めし色衣 着ては涙ぞふる心地する (源氏の君)
(訳)毎年元日には新しい着物に着替えをしてきましたが、
着れば今日は、ただ涙がこぼれる思いがします……
新しき年ともいはず降るものは ふりける人の涙なりけり (母 宮)
(訳)新年になったとはいえ、降り注ぐのは老いた母の涙です……
どなたの悲しみも、尽きることはないようでした。
( 終 )